ウリ民族の姓氏−その由来と現在(30)

岩穴から生まれた?南平文氏

種類と由来(17)

朴春日


 文氏の本貫数は130余。稀姓に属するが最上位にあり、由緒ある歴史を誇っている。

 まず南平文氏。始祖は高麗の功臣・文多省(ムン・タソン)で、先祖が岩穴から生まれたという神奇な伝承を持つ。そして、その後孫は今でも慶尚南道泗川郡にある岩穴の前で祭祀を行うという。いわれはこうだ。

 文多省の後孫に文テボンという人物がいた。ある夜、白髪の老人が夢枕に立ち、「今に南で災難が起こる。祖先が生まれた岩穴に隠れよ」と命じた。

 そこで一族がその岩穴に隠れると、倭寇(わこう=日本の海賊)が現れて多くの村人が殺されたが、文氏一族は難を逃れたという。のちに高麗の宰相を務めた文公仁と文克謙は、この氏族の出身である。

 つぎに丹城(タンソン)文氏。始祖は有名な愛国者・文益漸である。彼は高麗・恭愍(コンミン)王のとき元の都へ派遣されたが、元政府の不当な要求を拒んだため、雲南の地へ流刑となった。

 しかし彼は、雲南で木花(モクファ)、つまり綿花の畑を見ると、「この木花を祖国で栽培して、民百姓にも綿入れを着せよう!」と決心した。

 そこで彼は密かに、木花の種を10粒ほど筆筒に隠し、その栽培法を研究した。元では、木花の種の国外持ち出しは死罪である。

 そうして死線を乗り越え、木花の種を祖国へ持ち帰った彼は、義父の鄭天翼と相談し、その種を半分ずつ故郷(慶南・山清郡丹城面)の畑に植えたが、白い花をつけたのは義父の1粒だけだった。

 それから8年、艱(かん)難辛苦をくり返した2人は、ついに畑いっぱいに真っ白な美しい花を咲かせ、木花の栽培に成功したのである。1366年頃のことという。

 こうして、わが国の木花栽培の歴史が始まり、李朝・世宗王の時代には全国的に栽培が奨励され、「木綿(モクミョン)」の衣服が広く庶民にゆき渡ったのである。

 この木綿は、15世紀の初めから日本へも輸出され、高級衣料として貴族や武士から「モンメン」と呼ばれ、大変に珍重されたという。

 文益漸の孫・文莱(ムン・レ)と文英(ムン・ヨン)はその遺業を受け継ぎ、独特の糸車(ムルレ)と綿布(ムミョン)を考案している。

 そのほか主な本貫と始祖は、長淵・文正、綾城・文亮、善山・文瑛、開寧・文世郁など。また、文章をよくすると称賛され、文氏に改姓した金原吉は甘泉文氏、全林幹は旌善文氏の始祖となった。文が文を呼んだのであろう。

 見落とせないのは、百済から倭国へ遣わされた王仁博士の子孫に、文宿祢(ふみのすくね)、文忌寸馬養(ふみのいみきうまかい)らがいた史実。馬養は「万葉集」に短歌2首をのせる。河内の文氏の存在は大きい。

 次回ば氏と全氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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