ヨコの平等な関係築いてこそ
吉武輝子 評論家
女性運動は「この指止まれ」方式のヨコの連帯が大切だと語る吉武輝子さん。背景の絵は洋画家・三岸節子の色彩豊かな花の絵(写真・金三永記者) |
性暴力の被害者がみずからの体験を人前で語ることは、並大抵のことではない。深刻なトラウマ(心の傷)の再現に耐え、被害者に「汚れた女」の烙印を押したがる社会の偏見と闘わねばならない。自身も、敗戦直後14歳の時、米軍兵士に集団レイプされた性暴力の被害者だった。2度の自殺未遂。苦痛といまわしい記憶のトンネルを抜け出るまでの長い、長い歳月。暴力を徹底的に見つめて「生きる力と尊厳」を取り戻した体験が、後に「反戦、平和、反暴力」の行動の原動力となった。
あの時、力ずくで兵士たちが私から奪い取ったものは、単に肉体ではなく、よりよく生きようとする意志そのものだった。そうはっきり悟ることができた時、猛烈な怒りが体の奥底から吹き上げてきた。「よりよく生きようとする私の意志が、暴力ごときに屈してなるものか」と。その頃の私には、まだ理論化する力はなかったが、暴行事件は私の落ち度から起こったものではなく、力信奉の男性優位文化の象徴である軍隊のシステムがなした犯罪であることを肌で感じとっていた。そのことを苦しんで苦しんで生きてきたその果てに理解した時から、私の再生の第一歩が始まった。 戦前の日本は天皇を頂点として国家ぐるみで女をいやしめた。女は人間扱いされなかった。その延長線上に朝鮮やアジアの女性への暴力―「従軍慰安婦」制度を設けた。日本の女性たちはその構図を長い間自分自身のこととしてとらえることができなかった。反戦・平和とフェミニズムの運動を推し進める中で、暴力の象徴である戦争の根を絶つためには、その起点たる性差別を廃絶しなければと考え、反戦と女性解放をセットにした「戦争への道を許さない女たちの連絡会」を20年以上前に立ちあげた。社会の変化は遅々たるもの。まして女性を巡る変化は微々たるもの。私たちの運動は1人が長く走るマラソンではなく、みんなでバトンを繋ぐ「駅伝」方式で息長く続けたい。
1人の人間の人生など知れたもの。でも次の世代にバトンを渡せれば、知れた人生に膨らみができ、肉体は滅んでも精神は息づき続けていくことができる。私自身も先輩が生きた時代を、彼女たちの歩んだ道程を聞き書きすることで、追体験しながら、先輩たちの落ちたワナにかからぬように細心の注意を払って生きてきた。歴史の語り部がいてくれてこそ、私たちは歴史の真実を知り、その歴史の真実から、よりよい生き方を学びとっていける。 今、中央大学法学部で「女性学」を講義している。彼らは、日本軍性奴隷を強いられた女性たちの勇気ある証言や「ナヌムの家」のことなどを目を輝かして聞いてくれる。彼らなりに私の話を聞いて自分の現在地を確認していると思う。これからも女性同士の信頼、タテではない平等な関係を、朝鮮、アジアへと発信していきたい。聞き手・朴日粉記者 |