独裁と対峙したオモニ−徐京植 (上)

労働に明け暮れた少女時代


 1971年7月、呉己順は夫の徐承春とともに京都市の自宅を発って韓国に向かった。ようやく始まる次男・勝、三男・俊植の裁判を傍聴するためである。彼らはいずれも「母国留学生」として祖国韓国に渡り、徐勝はソウル大大学院(社会学)で、徐俊植は同大法学部で学んでいた。ところが、この年4月、陸軍保安指令部が「学園浸透スパイ団事件」を発表した。呉己順の2人の息子こそ、このリーダー格であるというのである。折から、三選を目指す朴正煕大統領と野党候補金大中候補との選挙戦が終盤を迎え、学生、知識人の反政府運動がもっとも高揚していた時期だった。発表を聞いて、呉己順はソウルに駆けつけたが、その時は、俊植とは面会を許可されず、勝については居所すら分からないまま、「ボーボー燃えるのを担架でかついでいった」などという不吉な噂を聞いただけだった。

 呉己順が法廷の傍聴席に入ると、20人ほどの被告がすでに入廷して背中を見せていた。2人並んだ息子たちの後ろ姿はすぐに分かった。ちょっと振り返った俊植とは視線があった。だが、その隣の人物は、顔も手も包帯でぐるぐる巻きだったのだ。「おい、耳、ないぞ」と夫の承春が言った。取り調べ中に激しい拷問を受けた徐勝は、強いられるままに自白することによって祖国の学生や知識人の運動に被害を及ぼすことを恐れ、わずかな監視の隙をぬすんで焼身自殺をはかったのだった。

 裁判の結果、徐勝には無期懲役、徐俊植には懲役七年がそれぞれ確定した。この後10年間にわたって、呉己順は息子たちの因われている祖国の監獄に通い続ける。

 呉己順は1920年12月20日、朝鮮半島の忠清南道公州郡に生まれた。

   「日韓併合」の10年後、3.1独立運動の翌年である。ご多分にもれず窮乏した零細農民だった呉己順の父は、生きんがために裸一貫で日本に渡り、京都の太秦で牧場の下働きに落ち着いた。その後を追った母に手を引かれて呉己順が玄海灘を渡ったのは1928年、満7歳のときのことだ。それからの呉己順の生活史は、一般的な在日朝鮮人1世の例によく合致する。貧しさ故に小学校の門すらくぐらないまま子守奉公に出た呉己順は、やがて西陣織の織り子となり、労働に明け暮れる少女時代を過ごした。1940年に結婚したが、婚家の暮らしも貧しく、小作農となって、京都府下の農村に入った。呉己順は農事に追われ、夫の徐承春は繊維製品の商いに日本各地を歩いた。たびたび夫に徴用令状が舞い込んだが、その都度、行方不明などと言い張って応じなかった。応じるとたちまち一家が飢えることは明らかだった。それに、徴用で樺太や千島に連行された朝鮮人たちの多数が死んでいったことも風の噂に聞いていたからだ。

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