地名考/故郷の自然と伝統文化

釜山―@港湾都市

天然良港、温暖多雨の地

司空俊


 釜山は洛東江河口の港湾都市である。ソウルから450キロメートル、日本の対馬までは56キロメートル、下関までは246キロメートルである。

 湾は東湾(大型船舶用)、西湾(沿岸漁船用)、南港(沿近海漁業用)の3つである。港湾には影島と朝島、56島が前方に浮かんでいる。外洋の風波をさえぎって碇泊(ていはく)が安全な水面と、8〜9メートルの水深および投錨(とうびょう)しやすい海底地質、そして十分な広さの海面、激しくない潮流速度など、干満差がほとんどなく、土砂流入による埋没の心配がない天然良港であるといえる。

 地形図を見ると3つの山脈の間に市街地が広がっている。平均気温は13.6度と高い。年降水量も1390ミリと多い。筆者の勤務する東京小平市よりも温暖多雨であるかもしれない。

 伽洛国と新羅の境界に位置し、高麗初期までは放馬場であった釜山。その名称があらわれるのは1368年であるが、李朝時期には東莱郡に属していた。かつては富山津とも呼ばれた。

 1914年に釜山府となり、25年には慶尚南道の道庁がここに移転されたりもした。57年に区制が施行され、63年には直轄市に、現在は広域市となっている。

 釜山という名を耳にすると在日同胞の感情は実に複雑であろう。何とも表現しにくい都市である。

 その訳は、やはり日本との関係にある。1426年、日本は朝鮮に対して通商を求めてきた。この時の取決めにより三浦(熊川齊浦、蔚山塩浦、東莱釜山)が開港され朝・日関係の重要地点に浮上した。

 1876年には丙子修好条約、江華修好条約、釜山居留地借入約書を結ばされた。江華条約の第一款には、従来の慣例および歳遣船を改め、今般新たに定められた条款を憑拠(ひょうきょ)して貿易を惜弁すること、朝鮮側は二口(2つの港)を解放し通商を準聴すること、地面と屋宅を日本側は自由(随意)に使用することができること、などと書かれており、一方的要求を押しつけたのである。日本の侵略的意図をうかがうことができる。

 この条約には朝鮮の行政権をも侵害する海図の作成、裁判権の要求までも盛り込まれている。日本領事館直属の警察署まで置かれた。
 こうして、八三年に釜山は仁川と元山と共に強引に開港させられ、侵略の門戸が開かれた。私たちはこのことを決して忘れてはならないだろう。

 1910年、総人口は2万2000人であったが、26年には日本人だけでも4万人をこえた。日本からは綿製品などが持ち込まれ朝鮮の民族経済を没落させた。穀物商店を設立し、農民に前貸し金、高利貸的方法で米を収奪し、日本に移送を始めた。これが釜山を中心に行われたのである。日本家屋は今も竜頭山を中心に残っているという。

 この天然良港の釜山は現在、アメリカに利権をとられている。剰余物資が搬入され、民族経済は破壊され、富はここから奪われている。その対象は水産業、製糖、繊維、ゴムなどである(ゴムは軍需品)。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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