新世紀へ―民族教育を歩く

学びのかたち


 「子供は学校へ行くのがあたりまえ」という常識が崩れて久しい。学校へ行けない不登校児の増加が社会現象となり、学校より「家庭」を学びの場に選ぶ、いわゆる「ホームスクーリング(在宅学習)」なるものも一般に認知されつつある。欧米やカナダ、オーストラリア等ではめずらしくなく、米国では200万人、全体の5%がホームスクーラーだ。そのための教材やカリキュラムも充実している。学校は、教育の最もポピュラーなかたちではあっても、唯一のかたちではない。

 さて、問題を在日の民族教育に置き換えてみる。学校以外で子供たちに民族の言葉や歴史、ひいては情緒や感性をもしっかりと伝えていく方法はありうるのか。家庭や地域が、その役割を担うことは可能なのか…今のところ現実的でないと言わざるをえない。

 新世紀の民族教育を発展的に考える場合、学校以外に、多様な学びのかたちを探ることにも一考の価値があるだろう。しかし、在日同胞にとっての学校(=ウリハッキョ)は、やはり特別な「かたち」を持っている。ある朝高の教員は、毎春迎える卒業式に、そのかたちの1つを見る。

  「訪れる誰しもが、ここに自らの原点を確認し、悲喜こもごもの凝縮された和やかな表情で帰っていく姿を見る度、ウリハッキョは、子供たちだけが学ぶ場ではない、誰もが学ぶ場所だと知らされます」

 地域のみんなが力を合わせ、「かけがえのないもの」を守り、学び、育んでいく。それは、「学校」の最も理想的なかたちと言えるかもしれない。(姜和石記者) 

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事