歪んだ教科書とあぶない政治家

「強盗の論理」と朝鮮べっ視


 日本の小学校に通っていた頃だったと思う。社会科の時間になると憂うつな気分になったものだ。「朝鮮」という言葉が出る度に、教室の中にただ1人の朝鮮人である私に注がれる無言の刃。しかし、1世の母のおかげで、私は民族的な自尊心を持ち、ぬえのような差別意識と闘うことができた。

 子供を教育するのは、一筋縄ではいかない。人を差別したり、偏見を持ってはならないというのは、自明の理のはずだ。しかし、日本では良識をもつべき政治家や学者、知識人らが率先して、隣国を敵視したり、他民族を見下す言動を平気で繰り返している。

 石原都知事の「第三国人」発言、野呂田氏の「大東亜戦争はアジア解放戦争だった」などの発言…。枚挙にいとまがない。

 こうした「強盗の論理」は日本の社会では戦前、戦後を通じて一貫してまかり通ってきた。最近、かまびすしい「新しい歴史教科書をつくる会」の作った教科書も、一言でいうなら、この「強盗の論理」と朝鮮べっ視で全体が貫かれている。

 「韓国併合・植民地化は、日本の安全のために必要だった、合法的だった」と賛美しているだけではない。創氏改名、日本語の強要、土地収奪、強制連行、「従軍慰安婦」、徴兵制の施行、皇民化政策、独立闘争への弾圧など、植民地支配の実態についてはまったく記述がない。自らの犯した罪には触れようとしないのだ。

 教科書で書くべきは、歴史の真実であり、再び同じ過ちを侵してはならないという決意である。そうでなければ、過去からの問責は日本に絶え間なくのしかかってくるだろう。(粉)

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