地名考−故郷の自然と伝統文化

仁川−中心地は済物浦

米軍に打撃を受けた月尾島

済物浦(1900年)

仁川済物浦に上陸した日本軍


 仁川は元々、済物浦という朝鮮西海岸の一寒村に過ぎなかった。

 李朝の大院君時代、キリスト教を厳禁した事件と関連し、フランス軍が「問罪」だといって戦艦を外港の芍薬島に停泊させた。その後、米国軍艦が2回も来襲。日本軍艦の来襲による「雲揚号事件」が起き、清日戦争では沖合で海戦が、露日戦争ではロシア軍艦2隻が外港で撃沈されるほど、仁川は外勢との戦場の場であった。

 仁川と称されたのは1413年からである。1876年、朝・日修交条規(江華条約)によって、釜山、元山とともに83年に開港させられた。この時、行政の中心地は済物浦に移転された。

 済物浦は日、米、英、伊、独などの列強から不平等条約を強要された地である。日本は公使館の警備という口実で軍隊を駐屯させた。その侵略の進行とともに清日戦争、露日戦争がここから始まった。そして治外法権によって、日、清、米、英、独がそれぞれ仁川の中心部を分割し、互いに利益をあさっていた。

 仁川は釜山、元山に次ぐ古い開港場で、港内には月尾島が横たわり、港外には永宗、竜遊、紫月、舞衣、霊興、大阜などの島々がある。

 ただし、朝鮮西海は干満の差が9メートル、最大12・7メートルに及ぶこともあり、閘門式築港をしている。

 仁川は江華湾沿岸の金浦湾と華城半島に挟まれた半島部に位置する。地形は海岸の富坪平野に位置するため平坦である。周辺には低山と丘陵地帯がある。

 大きな河川がないので水不足になることが多い。海は深くはないが西方谷になっているため、仁川港の水路となっている。海の深さは15メートルほどで、20メートルを越すところもある。仁川港の潮汐流の速度は、3メートルほどである。

 全般的にみて浅い海であるため、海洋の影響よりも大陸性の気候が特徴だ。それでも京畿道の内陸部に比べて、8月には0.5〜0.9度ほど高い。しかし海洋の影響が弱いため、同じ緯度帯に位置する東海岸の三陟に比べて、年平均気温が2度低く、1月には3・6度ほど低い。

 古くから朝鮮の商業と工業の中心地の1つであった。

 近くに、南朝鮮の代表的な延坪島漁場がある。イシモチ、太刀魚、ボラ、貝のほかに製塩、鉄、タルク、硅石、カオリン、硅砂なども水揚げされている。

 朝鮮最初の開港地域の1つで、また鉄道が敷かれた地域の仁川港は、1984年10月初めに北から送られてきた救護物資の一部のセメントの伝達地でもあった。

 ソウルの外港として、穀物の運搬によって栄えた。港は月尾島、小月尾島を境にして、内港と外港、北港に分けられる。

 月尾島は朝鮮戦争時、朝鮮人民軍が米軍の仁川上陸作戦に打撃を与えた所でもある。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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