福沢諭吉没後100年
痛ましい「再評価」の動き

アジアべっ視と侵略を先導

安川寿之輔
(やすかわ・じゅんのすけ)

  1935年、兵庫県に生まれる。64年、名古屋大学大学院教育学研究科博士課程修了。近代日本社会(教育)思想史専攻。現在、名古屋大学名誉教授。著書「増補・日本近代教育の思想構造」(新評論)他。

問われる「戦後民主主義」

 日米新ガイドライン法によって、日本は戦争責任・戦後補償も未解決のまま、戦争国家への道を歩もうとしている。侵略戦争のシンボル「日の丸」と天皇治世(ちせい)を賛美する「君が代」がそのまま国旗・国歌となり、憲法と教育基本法の改悪が目指され、侵略美化の「つくる会」の歴史教科書までが公認されようとしている。なぜ、日本はこのように再び戦争とアジアの孤児への道を歩もうとしているのか?

 この難問を解くには、日本の戦後民主主義というものが、半世紀を越す侵略戦争と植民地支配の、天皇裕仁を筆頭とする日本社会と国民自身の戦争責任問題を放置した民主化の歩みであったという事実を問題にしなければならない。

 具体的な問題を指摘すると、アジアからは「近代化の過程を踏みにじり、破たんへと追いやった、わが民族全体の敵」(韓国)、「最も憎むべき民族の敵」(台湾)と認識されている福沢諭吉(1835〜1901年)を、戦後の日本では偉大な民主主義の先駆者と美化する研究が一貫して続いてきた。つまり、戦後日本の民主主義は、侵略と植民地支配の戦争責任という大きな問題を放置してきたために、アジアへのべっ視・偏見を垂れながし、アジア侵略の先頭に立っていた福沢を「市民的自由主義」者と美化する学問が続き、日本人は未だに諭吉が一万円札を飾っている事実に疑問も恥じらいも持たないのである。

諭吉のアジア認識

 戦後日本を代表する政治学者・丸山真男(1914〜96年)を筆頭に、初期の福沢は国と国との関係は平等という国家平等論者であったと理解されている。ところが、1874年の台湾出兵について福沢は「遂に支那(しな)をして50万テールの償金を払はしむるに至たるは国のために祝(しゅく)す可(べ)し。…誰か意気揚々たらざる者あらん。」と書き、「そもそも戦争は国の栄辱(えいじょく)の関する所、国権の由(よっ)て盛衰を致す所」と主張した。翌年の江華島事件では、「小野蛮国」の朝鮮が「来朝して我属国と為るも、尚之(なおこれ)を悦(よろこ)ぶに足らず」と説き、彼は、国際関係の現実は「切捨」御免(ごめん)、「パワー・イズ・ライト」の関係にあると主張した。

 福沢は中国人を「チャンチャン」呼ばわりする先頭にたち、中国人を幕末以来「乞食穢多(こじきえた)、ボウフラ【注】 、豚、豚尾児、怯懦卑屈(きょうだひくつ)、烏合(うごう)の衆、軟弱無廉恥、無知蒙昧(むちもうまい)の蛮民(ばんみん)、土人(どじん)」などと侮辱しただけでなく、アヘン戦争のさいの中国の民族的英雄・林則徐(リン・ソクジョ)についても、「知慧(ちえ)なしの短気者」と侮辱した。

 日本の国家権力と民間が一体となって朝鮮の内政に武力介入した甲申政変(こうしんせいへん)では、福沢はクーデターの武器提供まで担い、天皇の「御親征」と北京攻略まで要求する激烈な開戦論のために、彼の新聞(時事新報)の社説が2度検閲・削除されただけでなく、同紙の発行停止処分さえ受けた。

  【注】 ぼうふら=水たまりにいる、蚊の幼虫。赤色をしており、からだを曲げのばしして泳ぐ。

【軟弱無廉恥の国民】

 日清戦争を「朝鮮の文明」推進のためと主張し、武力行使をするのは、朝鮮人が「軟弱無廉恥(なんじゃくむれんち)の国民」だからと、相手に責任を転嫁した。そのため福沢は、痛ましいまでのアジアへの侮べつ・偏見を、「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟(そうくつ)、下流は奴隷の群衆」「朝鮮国…国にして国に非ず」「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」「南洋の土人にも譲らず」「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」「老大腐朽(ろうだいふきゅう)の支那国」「支那…溝にボウフラの浮沈するが如し」「支那兵…豚狩りの積りにて」などと垂れながした。

 @朝鮮王宮占領A旅順虐殺事件B閔妃殺害C台湾征服戦争という公刊戦史からは隠されている日清戦争の不義・暴虐を象徴する全事件について、福沢は、もっぱらそれを隠ぺい・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を担った。例えば、朝鮮の王妃殺害という言語道断の重大犯罪を、彼は閔妃が殺されても当然の人物という物語を英文で創作し、アメリカの新聞に掲載しようとした。

 筆者の近著で、日本人読者が一番驚くのは、存命していたならば、福沢が日本軍性奴隷=「従軍慰安婦」制度に反対することはおよそあり得なかったという指摘であろう。

過去の誤った研究への復帰

 同時代人からは「法螺(ホラ)を福沢、嘘を諭吉」と非難され、「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」福沢の道のりは、「不可救(ふかきゅう)ノ災禍(さいか)ヲ将来ニ遺(のこ)サン事必セリ」というきびしい批判を受けたのは当然である。ところが、近年、この福沢諭吉を「東アジアで再評価の動き」という報道(日本経済新聞・2月17日付)もある。

 残念ながら、福沢の「独立自尊」は「万世一系の帝室」尊崇(そんすう)を自明の前提にしており、彼の「一身独立」が「国のためには財を失ふのみならず、一命をも抛(なげうち)て惜むに足ら」ない「報国の大義」であることを見落とした日本の過去の誤った研究への復帰にすぎない。

 いくら個人の独立が望まれているからといって、アジアべっ視と侵略を先導した人物の再評価とは、痛ましい限りである。

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