「つくる会」の歴史ねつ造教科書
なぜ「物語」を作るのか
「新しい歴史教科書をつくる会」が現在、文部科学省に検定申請している中学歴史教科書。その許しがたい歴史記述のわい曲、ねつ造はどこから来ているのか。なぜ彼らは現実を直視せず、自分に都合のいい、居心地のいい「物語」を作るのか。その思考の構造と社会・歴史的背景について、現代日本社会に対する分析で知られる、社会学者の宮台真司・東京都立大助教授(社会システム理論)と、日本の近代化・ナショナリズム研究で知られる小熊英二・慶應大助教授(歴史社会学)に話を聞いた。(「つくる会」は、中学公民教科書も検定申請しており、それも参照してもらった)
「駄目な日本」の自覚を/幻想によがらず現実を直視せよ 宮台真司(東京都立大助教授) 滑稽で恥ずかしい 「何よりも駄目な日本」という自覚を、明治維新以来、われわれが1度もしたことがないということが何よりの問題だ。今回の「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書検定申請問題は、そのことを何よりも照らし出してくれている。 1991年にバブルが崩壊し、とくに97年以降、不況が急速に深刻化していくなかで、政・官ばかりか民までどこもかしこも腐っていて「何よりも駄目な日本」であることが、先進各国や周辺のアジア諸国の目にも明らかになりつつある。 「つくる会」のこっけいさは、その駄目さを直視せず、覆い隠すために、日本がいまだに「精神的に一体化するに足る共同体」であるかのような幻想を振りまこうとし、その幻想を支えるため、アジア諸国をダシにした架空の「物語」を作っているところにある。「悪いのは左翼と戦後民主主義だ」と「自虐史観」に責任転嫁し、「日本はすごい」と誇大妄想を膨らませるのは、本当にこっけいで恥ずかしい。 日本社会は、これからますます流動的になる政治経済環境のもとで、近代社会を確固として維持するにいたる民度を持っていない。これが日本をますます駄目にさせる根本問題。民度を上昇させるには、「つくる会」の「自分はすごい」ではどうにもならない。 「徹底的に駄目だ」と自覚するには勇気がいる。そうした勇気を発揮して初めて、自分たちが、何ができ、何ができない存在なのか、はっきり分かる。その時こそ、「つくる会」的な気休めの幻想にすがらずに、必要不可欠なプログラムを樹立するチャンスが訪れる。 呑気な子供のまま 日本は明治維新後、急速な近代化を成し遂げるために集合的なナショナリティを醸成し、かつてなかった「国家のため」といった動機づけで人々を近代化に向けて動員しようとした。そのために、近代天皇制が徹底的に利用された。これは日本だけでなく旧枢軸国圏、つまり後発近代化国の統治権力が急速な近代化を果たすために利用した「ファシズム」と呼ばれる国民化戦略だ。日本はこれによってイタリアやドイツなどと同様、多大な成功を収めた。 「何よりも駄目な日本」という表現は、ドイツの左翼詩人エンツェンスベルガーが30数年前に出した「何よりも駄目なドイツ」という本のタイトルからの借り物だ。この本は60年代、ドイツの左翼の若者に大きな影響を与えたが、その彼らが今、首相をはじめドイツの政権の中枢にいる。ドイツも日本と似た後発近代化のプロセスをたどったが、戦後の欧州をサバイバルするため、「何よりも駄目なドイツ」という枠組みを経由しないわけにはいかなかった。そのせいで、日本に比べてずっと徹底的に、戦前的なシステムから自らを切断することができた。 ところが日本は敗戦後も「何よりも駄目な日本」を自覚したことがない。東西冷戦を背景に「運良く」米国の所属下に置かれたことで、目標を軍事から経済に置き換えただけで、日本的なシステムの欠陥を認識しないまま、戦後へと移行した。その結果、日本は、近代社会を成り立たせるのに当然必要な社会的部品のいくつかを欠いたまま、いわば大人ではない呑気な子供のまま、「何よりも駄目な日本」のままであり続けた。 米国の核の傘におんぶに抱っこで経済成長を謳歌する者が「自分たちが悪うございました」と謝るのと、「自分たちは根本的に駄目だった」と反省することはまったく違う。「根本的に駄目だった」と反省しなかったからこそ、政・官・民の全て、あるいは右と左のすべてを、根本的に駄目なシステムが覆い尽くしている。 既定の目標があれば一丸となって一方向に突進するが、集団内部は空気によって支配され、個人の責任でゼロから思考する者がいないため方向転換はきかず、それゆえに生じる不祥事に対して誰も責任をとれずに総崩れになる。戦中も戦後も変わらぬ悪癖だ。 危険な大衆煽動主義/近代以降の勝手なアジア観 小熊英二(慶應大助教授) 彼らこそ「自虐的」 「つくる会」の歴史教科書を読んで感じたのは、まず、その卑屈さだ。基準が、彼らが「左翼」だと思っているもの(実際には幻想だが)にあって、それに対する反論、弁明が多い。もう1つの基準は欧米で、やはりそれに対する反発が続く。その意味で、彼らの方がむしろ「自虐的」だ。 当然のことながらアジア諸国の反発を招いている侵略正当化の一連の記述は、先に述べた構造の中におけるアジア諸国の位置づけからくるもので、近代以降の日本のアジア観の傾向がよく表れている。それは、そもそも欧米との関係が先でアジア諸国は後。都合よく利用はするものの、ろくに知識もない、本当は関心すらないというものだ。 記述は、日本という国を欧米の基準で近代国家として認めてもらいたいがために、中国と朝鮮、そして日本の歴史はこうあって欲しいという願望、こうあったはずだという憶断が多い。植民地支配を正当化しているからよくないというレベルの問題以上に、自分が作りたい物語のために他のアジア諸国を材料に使う姿勢が気になった。 このように近代以降、連綿としてある日本のアジア観(アジア観というよりは欧米観のネガと言うべきだが)がよく表れている。 このような歴史教科書の記述は、公民の教科書に顕著に表れている彼らの思考回路から派生しているものだろう。結局、彼らなりの不安、危機感から脱出するための打開策として、「国家や公共心は大切だ」と唱える公民の教科書があり、歴史教科書に反映された歴史観はその主張を支えるためのものだ。 彼らにとっての一番の問題は、対欧米関係という形で展開されている現在のグローバリゼーション、もしくはアメリカナイゼーションと呼ばれる日常生活の変動についていけないことで、それに対してどう対処するかという時に、アジア諸国を材料に使って物語を作っているのだ。 視野の狭さと閉塞観 こうした彼らの思考は、旧来型の右翼ナショナリズムと同類のものと言えるのだろうか。私はむしろ今風のポピュリズム(大衆煽動主義)だと認識している。 大衆の不安をうまく汲み取り、その時々の潮流にうまく応じた物語を作るのがポピュリズムだ。今風というのは、不況をはじめ、日本の近代化の中で作られてきた旧来の枠組みが行き詰まって発生した様々な社会問題や、それにまつわる閉塞感の責任を他者に転嫁し、打破してくれそうな物語を提供している点だ。 政治の場では、55年体制で作られてきた保革の地盤が崩れて、ポピュリズムが出てきた。人々が「左右」の既存勢力に共に嫌気が差している閉塞感に乗った、そんな今風ポピュリズムを代表する存在が石原慎太郎・東京都知事である。 それを支えているのは、人々の視野の狭さだ。近年、ますますその時々の「瞬間最大風速」の気分や流行に流されるようになっている感がある。それが、政治の場面ではポピュリストの台頭という形に表れ、片やまともに広い視野で見れば日本の「国益」を損なう「つくる会」の教科書のようなものが出てくるということになるのだろう。とても危険な状況だ。 一方で私はこの問題を、そもそもは歴史認識の問題というより、教育現場の制度疲労の問題だとみなしている。「つくる会」のような主張をする人はいつの時代にもいるものだが、一部の教師たちがなぜ支持したかと言えば、彼らが教育現場の荒廃に相当深い危機感を覚えているからだ。 とくに歴史教育に関して冷戦崩壊後、何を価値基準にして教えていいか分からなくなってしまった一部の教師たちは、「生徒に喜んで聞いてもらえる歴史」を求めていた。生徒に喜んで聞いてもらえれば、それが右か左かというのは問題ではなかったと思う。学校教育や歴史教育の制度の問い直しも視野に入れないと、問題の根は絶てない。 こうした教育現場の危機感が解消されない限り、また同じような動きは出てくるだろう。それはもちろん、社会全体を覆う閉塞感と無縁ではないはずで、私たち研究者のやるべきことはまだまだ多い。 |