地名考−故郷の自然と伝統文化
光州−無等山
古来からの霊山
遠くに漢拏山を望む
無等山の多年草 |
三石台の一つとして有名な無等山 |
湖南地方の中心都市。栄山江流域・羅州平野の北に位置する。後百済が全州を首都とする前の都であった。古来から地方行政の中心地であったが、都の期間が短かく、経済文化の中心が全州に移ってしまったので古跡が少ない。
歴史をみると、百済時代は武珍州、新羅時代以後は武州、高麗と李朝時代は光州、化平府、武珍州、光山県と呼ばれた。 光州は軍事都市でもある。乙支文徳(ウルチムンドク、6世紀末、高句麗の武将)の銅像が建てられているなど、古来の将軍たちの武勇伝を示す建物や軍事関係のものが多い。その軍事重視ゆえ、かつては地域の就業人口がたったの5%となり、1960年代まで街に給食を求める人々の行列ができるほど、経済は深刻な様相を呈していた。 教育機関には光州学生運動(1929年11月)で知られる西中学校と、7階建ての朝鮮大学校などがある。ほかにはキリスト教系の私学が大半を占めている。 無等山(1127メートル)を語らずして、光州を語ることはできないだろう。 昔の話にこういうのがある。光州がどこに位置するのか知らない人でも、無等山がどこに位置しているかを知っているものだと。 光州の東方に位置する無等山は古来から霊山とたたえられてきた。新羅時代は武珍岳、武珍、高麗時代は瑞石山、そして李朝時代は現在と同じく、無等山と呼ばれた。景勝として有名で、頂上に立てば遠く済州道の漢拏山が望める。 頂上の天王、地王、人王の三峰は奇岩絶壁がびょう風を立てたように並ぶ絶景である。4つの登山コ―スがある。筆者の友人の1人は最近、柱状切理が発達し、40〜60尺(約20メートル)の石柱が立って奇観を魅せる「立石台」がとくに素晴らしいと自慢していた。 山腹には新羅時代に創建された証心寺がある。また、石仏と7重石塔は寺宝である。山麓にも古刹があり、全山賀信仰の霊山であったことをうかがうことができる。 とにもかくにも、無等山は光州のシンボルである。おみやげや店の名前、いろいろな施設に「無等」の名を冠したものが多い。 ソウルの明洞、釜山の南浦洞といえば繁華街である。光州の消費文化の中心といえば、行政や金融機関の集中した噤南路(光州学生運動のおこった場所)と、百貨店や映画館の集まった忠壮路であろう。特産はたわら型をした大きな無等山スイカ(10キログラムほど)で、かっては30キログラムのものもあったという。甘くておいしい。春雪茶も有名である。名物は「無等山麦飯」である。近くの松汀里は光州の関門都市である。 現在は全羅南道の道庁があり、政治経済の中心地として、近代的な都市に変わっている。 光州は、壬辰倭乱時、金徳齢が5000人の義兵で日本兵を打ち負かした場である。 また、光州学生運動の精神を継いで、運動の発祥地であった光州西中学校(現光州1高)には、現在、12メートルの光州学生独立運動記念塔が建てられている。その碑には「わたしは血の湧く学生である。正しい道のみがわれらの生命である」と刻まれている。 そして、それから50余年後に光州事件(1980年5月)が起きた。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |