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朝高生暴行事件とは

60年代初に頻発、死者まで/背景に対朝鮮敵視政策


重傷を負って入院した朝高生


 1960年代に頻発した朝鮮高校生に対する暴行事件とは?

 「韓・日会談」の早期妥結を目指す動きが激しくなっていた60年代はじめ、朝鮮高校に通う学生が国士舘高校生やヤクザなどから集団暴行を受ける事件が頻発しました。

 63年5月、東京朝高1年生の5人が渋谷駅地下街で、国士舘高校生25人ほどに、「おまえら朝高生か、なんで渋谷にきたんや」と言われ暴行を加えられた事件がその一例です。彼らはうずくまったまま、顔、横腹、足など、ところかまわず数10回、手拳で殴られ、足げにされました。卞光植君は登山ナイフで右大腿部を刺され全治1ヵ月の重傷を負いました。

 また前年の11月には、神奈川朝高1年生の辛永哲君とその同級生が法政大学第二高等学校の「二高祭」を見に行き、射撃部の展示室で展示品を見ていたところ、エアライフル銃を持った同校2年生Fにより背後から頭部を銃床で乱打され、辛君が頭蓋骨骨折脳挫傷により死亡するという事件もおきています。

 暴行事件はその後、日本政府が朝鮮学校の閉鎖をもくろみ「外国人学校制度創設法案」制定の動きを見せ始めた66年、「韓国の安全は日本の安全にとって緊要」との日米共同声明(佐藤・ニクソン会談)が出された翌年の70年、そして朝鮮総聯の活動を規制しようとした「出入国管理法案」が4度国会に提出された73年、連続的・集中的に起きています。

 事件はまた、これら対朝鮮敵視政策を背景に助長された朝鮮人に対する差別感、蔑視感によって起きたと言えます。事実、警察は暴行事件の大半について厳正な捜査をせず、被害者(朝高生)を加害者扱いし、朝鮮人に対する差別と偏見をあらわにしています。

 その一方で、事件を機に「在日朝鮮人の人権を守る会」が発足されるなど、事件の実態究明と、朝鮮人の人権を擁護する日本人の活動が行われていたことも明記しておくべきでしょう。(金大遠、研究家)

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