春・夏・秋・冬

  この頃、ウリマルが好きになってきた といえば、組織の中でウリマルで生活しているのに、今さらなにを、と思う読者もいるだろう。しかしそれは、筆者の率直な気持ちである

▼北南の同胞たちの水準まではいかなくとも、言いたいことがきちっと伝わる程度のウリマルを身につけようと、朝鮮の書物を読みはじめた。いま、南の大河ドラマ「王建」を見ていることもあって、「1冊で読む高麗王朝実録」がとても面白い。王建が後三国を統一する過程を描いたドラマでの出演者たちのセリフと、記録上に書かれた言語の1つひとつから、当時の人間の感情、生活文化、思想などが伝わってき、かつ、ウリマルに対してある種の憧憬(どうけい)のようなものを感じている。言葉の豊かさとともに当時の歴史も知ることができて、まさに一挙両得

▼ある日、組織や同胞社会の周囲で、ウリマルがどう使われているのかについて思いを巡らしてみた。例えば、組織の中で若い人の会話の中にある「そんなこと、マルハジアンコイッスムミダ」という朝鮮語と日本語の混じった言葉。また、民族教育を体系的に受けた人でさえ、まったくウリマルを使っていないのが現状だ

▼「ことばはそれを話す人間がいなくなったとき、あるいは、そのことばが次の世代へと伝えられなくなったとき、『死ぬ』のである」(イ・ヨンスク一橋大学教授)

▼いま1度、組織や同胞社会の中で、民族学校の生徒らと同様に「イルボンマル  ハンボン!」という、雰囲気を醸し出す事が大事ではなかろうか。そう思う昨今である。(舜)

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