「海峡を越えて」−前近代の朝・日関係史
善隣と友好の歴史をとらえなおす
連載にあたって−朴鐘鳴
渡来人の足跡を伝える高麗神社
(埼玉県日高市)
朝鮮半島と日本列島との関係は(以下朝・日関係という)、地理的に近いということもあって、歴史的に大変深く強いものがある。
しかし、どちらかというと、互いに相争ってきた長い歴史的関係であったかのような認識傾向がなお強い。つまり、昔から「反朝」「嫌韓」の対語のように「反日」があって、それが相互間に何回も繰り返されてきた、というような認識である。 そもそも朝・日関係は絶え間ない「反日」―「反朝・嫌韓」の歴史であったろうか。 約2000年間の朝・日関係を振り返ってみると、相互間の不幸な関わりは100年前後に過ぎない。「元寇」「倭寇」「壬辰・丁酉戦争」(「文禄・慶長の役」)、1905年以降の植民地の時期等がそうであった。 それに比して、平和的な相互往来の関係は、弥生時代から平安時代初まで、11世紀初から13世紀初まで、そして、室町時代及び徳川時代の朝鮮通信使など、千数百年間継続してきた。 徳川時代を例示すれば、その時代は一般に「鎖国時代」とも言われたが、唯一朝鮮王朝とだけは外交関係をもって使者が相互に往来し、文物の交流や貿易も大変盛んであった。 このような関係を、平和的・友好的・善隣的関係と一般に言う。 おおよそ、国交関係は、当事国が「国益」を念頭に置き、対象国との間合いをはかりながら進めるのが基準である。つまり、侵略、戦争、支配・被支配といった相互関係よりも、原理的に友好、平和、善隣こそが相互間の「国益」にかない、多少の相違点などはその前では2次的なものであると認識する時、事はそのように運ばれるのである。 朝鮮王朝は、伝統的に、日本を「島夷」とみなし、恩恵的に外交関係を設定するのだという観念があり、一方日本は「武威」を基礎に自らを「小中華」として位置づける観念の中で外交関係が構想されてきた。 しかし、それらの観念を維持しながらも、「壬辰・丁酉戦争」終結直後の朝鮮王朝と徳川幕府は、双方の国内状況の安定化という「国益」を最優先的に選択するという形で国交を回復し、その態勢は、時代の変せんにつれ、時に不協和音を発したりすることもあったが、それはそれなりに協調、調整をしながら19世紀初まで継続したのである。 これを「誠信の関係」と言うならば、それは豊臣秀吉の侵略―「壬辰・丁酉戦争」と対比してみる時、朝・日双方にとって格段に賢明な選択であったと言い得るのである。 現在でもその基本は同様である。様々な問題でやや緊張したりする場面があるにしても、それによって双方が直ちに一触即発状況に陥らないために、「何が国益か」についての意見の差を抱えながらも、多様な形での接触・交渉に積極的な努力を傾け、平和的な関係を結び保つことこそが最も「国益」にかなう、という外交的あり方を進展させるべきであろう。 そのためにも、朝・日間の不幸な関係は言うまでもなく、それよりもはるかに長期間続いた平和的、友好的善隣関係をとらえなおすことによって、それらを、現在から未来への教訓としながら、国際化時代、多文化社会への理性的展望を通観した共存、共生の開かれた社会の構築に目を向けてゆくべきよすがとしたい。 ※「海峡を越えて」は次号から第2週、4週の水曜日に掲載します。 |