祖国での取材を終えて

「楽観」に満ちる平壌市民たち

50年来の寒波、大雪―「いいことがある兆候」


未来に対する「楽観」に満ち、トラクター生産に励む労働者たち(写真は文光善記者撮影)

50年来の寒波もものともせず、元気に遊び回る子供たち

苦難乗り切りあふれる自信

 昨年10月、成果裏に終了した96年から繰り広げられてきた「苦難の行軍」。ちょうどその頃から約5ヵ月間、平壌で取材活動にあたった。その過程で多くの人々と出会ったが、「苦難の行軍」後、11月頃から滞っていた食糧の配給が正常化し始めたという。とはいっても、市民生活がかつてのレベルに戻るには、状況はまだまだ厳しい。市民たちは何を思って暮らしてきたのか―。

 「南の人なのか北の人なのか、私は一目で判断できる。基準は髪の毛だ。少なければ南の人、フサフサしていれば北の人」

 昨年12月、2回目の北南離散家族交換訪問の平壌での歓迎宴で、南の男性記者が北の30代の女性案内員にこう話しかけた。

 「水や空気がいいのかしら」。女性案内員はさらりとかわしながらも、社会主義制度下で暮らす北の人々の生活が将来に対する「楽観」に満ちていること、それは多少の困難に直面しても揺らぐことがなく、強い信念となっていることを語った。

 その説明に聞き入っていた男性記者は、「それで髪の毛がフサフサしているのかもしれないな。うらやましい限りだ」と納得していた。

 実際、取材のおりに「楽観」という言葉をあちらこちらで耳にした。市民の表情からもそのことを感じ取ることができた。

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 しかし、市民たちは将来を「楽観」するに至るまで、過酷な体験をしなければならなかった。

 「『苦難の行軍』時、食べられる物はすべて口にした」

 金星トラクター工場のチェ・ジェヒョク技師長(52)はこう語りながら、95年からの3年間は工場そのものが麻ひし、1台も生産することができなかったと打ち明けた。

 「資材の調達など、いろいろな問題点を自力で解決しながら、ようやく98年から年間数10台ずつながらも生産を再開した。去年はその単位を1ケタ上げることができた。現在は決心さえすれば、どんな試練も乗り越えられるという自信がついた」

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 完成までに700日余りが費やされた青年英雄道路(平壌―南浦間高速道路、約42キロ)。まさに「苦難の行軍」期間中に推し進められた建設だった。

 建設に携わった青年たちは、困難だった日々を思い起こしては「あの時、どこからあんな力が湧いて出てきたのか今でも不思議だ」と口々に強調する。

 現場近くに住み、毎日のように建設者たちに差し入れをし、彼らを励ましてきたクァク・アンスクさん(78)はこう語る。

 「きっと、ゴールが見えていたんだよ。とくに青年たちは、この苦難を乗り切り工事をやり遂げれば明るい未来が必ずやってくる、と分担された仕事をこなしていた。いつまで苦難の行軍が続くのかの判断もできず、いや自分たちの手で1日も早く終わらせるという信念がなかったら、『楽観』する気持ちも、力も湧いてこなかっただろう」

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 「明日の平壌は雪、予想最低気温はマイナス二17度です」

 新年を迎え、天気予報は連日のように、こう淡々と伝えていた。1月中旬には、3日連続で最低気温がマイナス26度を下回るなど、50年ぶりの大寒波が平壌を襲った。

 その地理的条件から元来、「寒さに強い」平壌市だが、今年は水道管が破裂するなど、これまでなかったという被害が報告された。そのあまりの寒さに、各家庭の暖房も効き目がなく「冷蔵庫にいるようだ」という声も聞かれた。

 また、雪もよく降った。市内に広がる久々の雪景色を目にしながら市民らは、「今年、なんかいいことがある兆候だ」「共同社説に示された課題を遂行しようと、一丸となっている私たちを応援してくれているようだ」と語っていた。

 そして、「今日も寒いね。(最低気温の)記録更新か」と、極寒を楽しんでいるようでもあった。心のゆとりが感じ取られた。

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 西側の世論が「援助」をてこにした「軟着陸」を騒ぎ立てている中、取材先で会った経済関係者、市民、本社平壌支局のスタッフらがそろって口にしていたことがある。

 「手伝ってくれてもいいし、そうでなくてもいい。多少時期のずれはあるにせよ、必ず強盛大国を作り上げてみせる」その言葉に、「苦難の行軍」を自力で乗り切った自信が満ちあふれていた。(姜イルク記者)

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