家族の心の中に生きる安江良介さん

いつか母と一緒に歩きたい

父が何度も足を運んだ平壌


ありし日の安江良介さんを語るとも子夫人(左)と娘の千香さん


食事も弁当も作って、寝転がって原稿書き
TV会社に抗議電話、娘と口げんか

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 「愛する人が亡くなる悲しみ、さみしさが、こんなに深いものであるのか、体験してみて初めて知りました」。

 岩波書店前社長・安江良介さんが逝って3年が過ぎた。とも子夫人の傍らで娘の千香さんがつぶやいた。

 雑誌「世界」の編集長を長く務め、日本の政治、教育、外交、ジャーナリズム批評など硬派のジャーナリストとして積極的に行動してきた安江さん。家族は96年にくも膜下出血で倒れ、不自由な体で1年半の闘病生活を送った安江さんを支え続けた。

 「生命の危機を何度も乗り越え、必死に生きようとする父の姿は、母や兄や私を励ましてくれました。元気な頃には何でも話をする仲のよい父娘でしたが、けんかもしょっちゅうしました。もう一度、父とおしゃべりがしたい、私に説教してほしかった」と千香さんは振り返った。 父亡き後に結婚。一粒種の良樹ちゃん(1)がそばで無心に遊んでいる。

 千香さんの目には、ありし日の父の様々な姿が焼きついている。「書斎の床に寝転がって原稿を書いたり、運動会の日、手製の弁当を籠にのせて自転車で応援に駆けつけてくれたこと。夏休みの絵の宿題を『俺が描いてやる』と仕上げてしまったり。テレビのニュース解説が気にいらなくて抗議電話をいれる父の真剣な姿。電話というより、聴衆の前で演説しているような口調だった。休日になると台所で楽しそうに食事を作って、朝食が終わるとすぐ、兄と私に『昼は何が食べたい』と聞くので、『まだ分からない』と言うと『何だ、だらしない』と勝手に怒っていました。テレビの時代劇の不幸な境遇の登場人物に目を潤ませたりもしていました」。

 とも子夫人は「父娘はいま仲良く語りあっていたと思ったらもうけんかしているんです。熱血漢といいますか、負けず嫌いと言いますか、似た者同士なんです」と微笑む。

 娘の千香さんが誕生したのは、1967年。安江さんは美濃部都知事の特別秘書に任命されたばかりだった。都庁は朝鮮大学校の認可問題で騒然とした渦の中にあった。夫人によれば、当時の剣木文相から安江さんに「都知事が国の意に反したことを行えば、地方自治法によって、内閣総理大臣は、知事を罷免できるぞ」というどう喝の電話がかかって来たりしたと言う。教育関係、保守政党からも昼夜を分かたず抗議電話、脅迫電話が入った。安江さんは与野党への折衝、庁内幹部への説得、時には議会、中央省庁や市民団体への根回し、知事に代わって舞台裏工作と目まぐるしい日々を送っていた。そして、帰宅するのは午前零時過ぎ。そこには夜回りの記者たちが待ち受けていて、とも子夫人も共に対応に当たった。

 「様々な苦労はありましたが、認可が決定した夜、大阪の猪狩野がどよめいています、という在日韓国系のある夫人から1本の電話を頂きました。朝鮮大学校の認可問題については、日本政府や韓国政府などが横槍を入れて来ましたが、在日朝鮮人の大多数は民族的な次元でこの問題を注視して、心から認可の決定を歓迎してくれたのです。ですからその電話を頂いた時どんなに嬉しかったか、忘れることができません」と語った。

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 父の死から3年。千香さんが一番切実に思ったのは「父に昨年の南北首脳会談を見せたかった」ことである。「朝鮮民族を愛し、統一問題に生涯心を寄せていた父が、金正日総書記と金大中大統領の力強い握手と語らいを見たら、どんなに感激したのかと思います」。千香さん自身があの場面を見て、直感したのは「日本は置いていかれる」という思いだった。「平和と統一・和解をめざし、国民に理想を示し、責任を負う指導者としての風格と決断。このような南北両首脳を素敵だと思いました。ユーモラスで、かっ達な総書記にパフォーマンス上手だと言う人もいますが、政治家がパフォーマンスを披露できること自体魅力的なことです。日本の政界には望むべきもないことですから」。

 安江さんが初めて平壌の地を踏んだのは1972年。まだ、北京から入れず、モスクワから平壌に飛び、香港経由で帰国した。それ以来、主席と5回会い、85年には12時間も議論した。「日本は北朝鮮に対していつもゆがんだ情報や一方的な見方に縛られて正しく判断ができない。自分の目で見ないから間違った認識に陥ってしまう。その間違いを正し、自分で見てきた朝鮮の真の姿を日本国内に知らせたいというジャーナリストとしての信念だったと思います」ととも子夫人。

 「世界」編集長、岩波書店社長になって多忙を極めても、小さな市民集会の講演を引き受け、語り続けた。南の民主化闘争で倒れた若者を思い絶句し、非転向長期囚やそのオモニの境遇に思いをはせ、壇上で涙を流す姿があった。

 朝鮮問題とあれほど格闘しなければ、今も健在だったかも知れない、と記者はふと思うことがある。しかし、千香さんはきっぱりと語った。「父はいつも口にしていました。早く社長をやめて、朝鮮問題に取り組みたいと…。南北朝鮮のみなさん、在日のみなさんと出会ったからこそ、父はあんなに幸せそうで、輝いていました。朝鮮問題に情熱を注ぎ、ひたすら発言し、行動した父は幸せだったと思います」。

 倒れた日の朝も家族の朝食を作り、ご飯を食べながら「今日は学習院大学で『天皇制』について話すんだ」と語っていた安江さん。千香さんは悲しみの衝撃からは立ち直ったが、父の不在という寂しさが消えることはないと語る。

 「いつか、父が何度も足を運び、心に刻んだ平壌の街を母と共に歩いてみたいですね」 (朴日粉記者)

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