本の紹介

「優れた政治家」の足跡 鮮やか

増補新版「金玉均と日本」 ―その滞日の軌跡 ―

琴秉洞著
(緑蔭書房 本体18,000)


 本書は1025ページに及ぶ大書である。本の厚みは5センチ越える。朝鮮近代の初期開化派の指導者であり、巨大な足跡を残した政治家金玉均に相応しい装いだといえよう。

 本の全容をわずかな紙数で紹介することは、およそ不可能なので、無謀にも1、2点、ポイントを絞って論じてみたい。

 まず、金玉均の人となり、その業績をどう評価するかについて、本書は朝鮮民主主義人民共和国はじめ南朝鮮の歴史学会の論議を含めて、現時点で収集されたあらゆる史料を丹念に検討し、極めて科学的な評価を下している。その点で、最大な功労があったのではなかろうか。

 本書の冒頭で、金日成主席の言葉が引用されている。「他の国々は、早くからブルジョア革命をへて資本主義的発展の道を進みましたが、わが国はそれをなしえなかったことを、私はつねづね残念に思っています。中国では康有為、梁啓超などが、ブルジョア改革運動を行いました。わが国では金玉均がそのような運動を起こしたと見るべきですが、一部の学者は、深く研究もしないでかれに親日派の烙印を押しました。周知のように、日本は東洋でいちばん早く資本主義的発展の道に入りました。それゆえ、金玉均は資本主義的日本を利用してわが国を開化しようと試みました。ところがそのうちわが国が日本に侵略されるようになったので、かれは結局親日派と決めつけられたのです。かれが、親日派であるかどうかは、今後さらに研究を深めるべき問題だと思います」(「金日成著作集」第12巻・58年3月)。

 金玉均が43歳を一期として、暗殺されたのが1894年3月。場所は上海。しかもその経緯はいまだに謎に包まれている。その後の屈折した朝鮮近代史の歩み、そして、ついには日本帝国主義による朝鮮完全占領という事態が、金玉均の評価をゆがめる大きな原因を作ることになったのだ。つまり、金玉均の評価の最大の核心は「親日派」か否かということである。解放前の日本側による金玉均「親日派」規定の後遺症は戦後の日本に多く残ることになったのはもちろん、解放後の朝鮮にも残されることになる。

 著者も指摘しているが、朝鮮人にとって「親日」というのは、欧米でいう親日的というのと意味が違う。朝鮮人にとってのそれは中国の「漢奸=対日協力者」のように「売国的」という意味が含まれているのだ。金玉均の場合も、半世紀以上にわたり、日本侵略者により意図的に朝鮮最大の「親日派」に仕立て上げられていたのである。

 著者の意図は明快だといえよう。金玉均の滞日生活の全容を解明することによって、これまでの意図的にゆがめられた金玉均像を正し、市井の人々が語る豊かな人間性を多面的なエピソードを交えながら生き生きと描き出す。金玉均の足跡を追って、著者は日本各地、小笠原、上海へと執念の旅を続けた。

 金日成主席は回顧録第1巻(92年)で、悲運に倒れた金玉均について触れながら、金玉均を「すぐれた人物だ」と称え、「かれの改革運動が失敗しなかったら、朝鮮の近代史が変わっていたのではなかろうかと思った」と指摘している。封建体制の諸矛盾の激化と外国勢力の侵略が進行する中で、政変を準備する際に日本の力を利用したのは、「親日的な改革をするためではなく、当時の力関係を綿密に検討したうえで、それを開化党に有利に変えるためだった、当時としてはやむをえない戦術だった」と評価する。
 朝鮮民族の自由と解放のために生涯を捧げた主席は、その一方で、志半ばで倒れた先駆者の業績を高く評価していたのだと思う。

 南北首脳会談が実現し、統一と和解の雰囲気が広まっている。東アジアの動きにも目が離せない。朝・中・日におよぶ金玉均の1世紀前の足跡をしのぶ時、本書の10年ぶりの増補出版はタイムリーであり、その意義は計り知れないものがある。(朴日粉記者)

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