取材ノート

呪縛からの解放 李相美


 あまり好きな言い方ではないが、日本人社会に入って十数年がたとうとしている。まわりの同胞は身内と同級生くらいで、あとは日本人ばかり、という環境に身をおきながら、幸い人にも仕事にも恵まれ、在日朝鮮人としてある程度「自然に」生きているということにふと充実感を覚える余裕も出てきた。

 反面、人との関わりにおいて、常に「これは私が本名で働く在日朝鮮人だからだろうか?」とせっつかれるように確認をする自分がいる。好意であれ悪意であれ、何かあると決まって「これは私が朝鮮人だからだろうか?」と考える。このくだらない呪文の呪縛から自らを解くのには長い時間がかかった。それは、今までの長い朝鮮人の歴史を自分の体にすり込み、それを愛し伝えることから始めないといけない。同時にその辛苦を、客観的に見なくてはならない。その間、頭の中は激しく揺り動き、朝鮮人としての自己に吐き気を催す時もあれば、涙があふれるほどの愛しさを感じることもある。そうすることが、外部で様々な人間と向き合うように、自分と向き合うことなのだと学んだ。

 先ほどの疑問に対し、私が出した答えは「YES」だ。それを低次元で差別だとか、逆差別だと言うつもりは全くない。問題は好意であれ悪意であれ、その後の関係をどう保つかである。深い信頼関係を築くには、朝鮮人を通り越した人間性をみせなければならないだろう。たとえ一方通行でもである。

 世界は広い。一層広げるのは自分自身である。(シネマスコーレ スタッフ)

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