「つくる会」教科書の問題性と危険性―弓削達

歴史学とは無縁な「大日本万々歳」物語

日本史美化、主観的歴史意識


「史実をゆがめる 教科書 に歴史教育をゆだねることはできない」。筆者も含め歴史学者889人が発表した非難アピール(写真は記者会見、2月15日)

科学的な「歴史叙述」は平和を傷つけない

 4月3日に文部科学省は、今年度行われた歴史教科書に対する検定結果を発表した。それによってかねてより注目されていた「新しい歴史教科書をつくる会」が主導して作られた、中学校の歴史教科書の検定結果が明らかになった。
この歴史教科書には137項目、という他社平均の約5倍という多数の検定意見(削除または修正を求める)が付けられ、それらを出版社側、執筆者側はすべて受け入れ、この教科書は検定に合格ということになり、この夏以降の各教育委員会による採択の対象となることになった。

 では検定合格によってこの歴史教科書の、本来執筆者が書こうとしていた本質はどのように変わったのであろうか。

「日韓併合」を善行の一つと強調

 出版社および執筆者が多数の検定意見を受け入れたことに表れているように、この教科書の執筆意図――現行の教科書の、日本の従来の対外行為の過ちを認め、今後再びそのような過ちを繰り返さないとの教育(それを自虐的と非難する)を一切否定し、日本のかつてのアジア諸国に対する戦争と外交を肯定するという日本史美化の目的に沿うような執筆意図――が検定意見の受け入れによってもいささかも変えられなかった、という認識の上に立って検定意見を受け入れたものである。つまりこの教科書の問題性と危険性はそのまま残っている、ということに注意しなければならない。

 このことを日本と朝鮮半島の関係で見てみよう。日本の第一線の「日韓関係史」専攻の高崎宗司・津田塾大教授は、検定前の同教科書を100点満点の20点、検定後を30点と評価された。「韓国併合」後の朝鮮半島で日本は確かに開発事業を行ったが、それは日本のためであり朝鮮のためではなかったこと、ペリー来航を「砲艦外交」というなら、江華島事件も同じことであることを認めていない。等々、この教科書は「日韓併合」を日本の善行の1つと強調したい本音がみえみえである。

 この一例にみるように、歴史を極めて主観的にみる歴史意識が前面に出ている。このグループの代表・西尾幹二氏をはじめ、歴史を「物語」ととらえる人たちは、歴史学の修練をつんだ人ではない。そのことが大きく関連していると思われるが、科学としての歴史学の科学性について悩んだ人はいないようだ。

歴史学の学問的達成を真っ向から否定

 かつての戦争中の皇国史観は、時代が変わったから捨てられたのであろうか。それは第2次大戦後の日本の混とんたる社会の中で、歴史研究の目的と方法について、研究者たちの血のにじむような苦しみの中で展開された、歴史学の目的と方法に関する「戦後歴史学」と総称される血のにじむような方法論争――それは単にマルクス主義か実証史学かという、あれかこれかの論争ではなく、マルクスはもとより、マックス・ウェーバー、ウィンデルバンド、ハインリッヒ・リッケルト等々を含みこんだ正に歴史学の科学としての方法を追求する論争であった。この方法論争をくぐることによって、歴史学の科学性は次第に多くの歴史家の共通するところとなった。

 歴史は「物語」だと西尾氏は言うが、確かに歴史研究の究極は「歴史叙述」とならざるをえない。しかし、1つの「歴史叙述」を書き上げるために、歴史家は多くの部分史料をふまえ、それぞれの史料にさかのぼって史料解釈の上での論争を終え、1つの叙述を作り上げることができるのである。

 その「歴史叙述」は、それぞれの歴史家が未来に向かって希望をいだいて歩き出せる「まぼろし」を与えるものでなければならない。そのような「まぼろし」は、1つの時代にあっては幾つもあるはずはない。それは端的に言えば結局は、1つであるはずである。それは、この混とんたる世界にあっては、「平和」ないしは平和を傷つけないものであろう。

「世間」を「お騒がせ」するただの本

 日本という一国にのみ希望を与え、他国の歩みには目もくれない、あるいは国家という枠を未来についても永久にありうるものという前提で人類の歴史を描こうとすることは、現代の歴史学とは無縁である。

 「大日本万々歳」のような物語を描こうとする人は、そもそも「歴史」の物語を書くにふさわしくない。

 検定による部分的な修正を受け入れたにしても、「大日本帝国万々歳」の意識が残っている限り、この雄大な著作物は真の意味で、「歴史」ないしは「歴史学」とは無縁なものといわねばならない。
 それは「世間」を「お騒がせ」している、ただの本でしかないことを知るべきであろう。

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