呉永石氏を悼む

民族と教育産業に精魂こめ 殷宗基


 ヒョン(兄)、ソンベ(先輩)、理事長とも呼び、親しくしてもらった呉永石ヒョンに、もはやお会いすることはかなわなくなった。悔しさばかりがつのる。

 永石ヒョンと知り合ったのは、知人が私に、日本のマスコミにコネがあるのを頼って、ヒョンへの橋渡しを打診してきたことにある。それで、食事を共にすることになった。「マスコミに取り上げられれば、巨額の宣伝費を投入したのに匹敵する」という初対面での話が印象に残った。こよなく朝鮮民族を愛し、南北統一を切望し、そのためにも学園運営を軌道に乗せたいという熱い思いに共鳴して、助力した。

 当時、ヒョンが使い分けた呉永石と中山英次の呼び名のはざまから、同氏の心の葛藤と教育産業界での生き残りのための格闘にふれた思いがした。お会いするたびに同業の誰それには、遅れを取りたくないと語句を強められた。良きライバルに恵まれていたのだと、今更のように合点する。

 当時の同氏にとって、再婚した日本人女性の間にもうけた女児の教育をどうするか、呉学園をどう展開するかが最大の関心事であった。

 同氏は、日本学校に在籍していた女児を朝鮮学校に編入学させ、呉永石を貫く決断をされた。ちょうど私が取材を始めた頃のことだった。大学を同じくするのを知って先輩と呼び、敬意を込めて理事長と呼ぶようにもなった。

 ヒョンは1つの志向、1つの信念から3つの顔を使い分けていたようだ。

 1つめの顔は、民族(同胞)と祖国統一に注ぐ熱い心情である。「どこそこに頼めば安上がりというが、割高でも〇〇に発注しなさい」と民族企業を指定し続けたこと。南朝鮮から日本を訪れた知識人を、祖国統一の見地から支援し続けられたこと。

 2つ目の顔は、1円の無駄もとがめ、利益となると見なせば大胆に決断、実行。ヒョンのメモ用紙は、いつも裏白の新聞に織り込まれるチラシだった。学園の各地への展開の際のち密な現地調査。これはと見込んだ教員、講師へのあくなきアタック。それが学園の名声につながり、学生を呼び込んでくれるとの確信があったのである。

 3つ目の顔は、信義を重んじたこと。大学同胞同窓会には可能な限り出席され、欠席の際にも必ず連絡された。冠婚葬祭に際しても同様だった。温かく、律義な人柄は多くの人たちから慕われていた。

 ヒョンがこんなに早く逝かれるのであれば、もっと頻繁にお会いしたかったのにと、残念でならない。(ジャーナリスト)

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