地名考−故郷の自然と伝統文化
慶尚南道−A馬山市ほか
屈指の保養地、「慶南の慶州」
司空俊
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馬山は釜山と晋州の中間点にあり、釜山からは75キロメートル。
馬山付近は高麗時代までには、骨浦、合浦と称された。 馬山という地名の由来は次のようである。馬山北方に斗尺山(マルジャ山。植民地時代に日本人が舞鶴山と名付けたことから、南朝鮮では現在も使用している)という山がある。この「斗」が「午」になった。それはともに朝鮮語の固有発音が「マル」であるからである。しかし封建時代、12支に使用される漢字は地名に使用されなかったことから、12支の7番目が午(うま)のかわりに同発音の「馬」が使用されて「午山」は「馬山」になった。つまり、斗尺山「マル(尺)山」から午山(マル山)、馬山(マル山)にかわっていったわけである。 釜山港(1876年)、元山港(80年)、楊花津(83年)、仁川港(83年)、南浦港(97年)、木浦港(97年)、群山港(99年)などとともに馬山港が99年に開港されると、日本人がなだれ込み、おもに新馬山に住んだ。旧馬山は中心地で商業地域、北馬山は工業地域である。馬山は一般に地域を新馬山(南)、旧馬山(北東)、北馬山(北)に3分された。 馬山は、気候が温和で空気は澄み、朝鮮屈指の保養地であった。花崗岩から湧き出る地下水は良質で、それでつくった清酒(濱鶴、艶縁、寒牡丹、白洸)が特産物として有名。地元では「酒都」などと自慢している。ほかに醤油(日本人が経営していたので、山田、平井、蒙古という商品名のものが引き継がれている)にも利用されている。フビライ(在位、1260〜94年)の時、蒙古軍が日本を攻めようと駐屯したとき、軍用水として掘ったという「蒙古井」があり、今も共同井戸として使用されている。 昌寧は慶南中央部に位置、邱馬(大邱―馬山間)高速道路の開通後に活気が出てきた。「慶南の慶州」といわれるほど古墳群が多く、石氷庫もある。 蔚山は古くからの日本との交通要地で、世宗8年(1426年)から89余年間、釜山、熊川と並ぶ三大港であった。地元の人は受難の地と言っている。1597年、丁酉再乱の時、加藤清正など侵略者によって恥辱を受け、財物と婦女子まで奪われた地であるからだ。 伝説の処容岩は市の南に位置する。これは新羅の憲康王(875〜885年)がこの地で遊んだ帰り道、竜王(雨と水を司るという神、海神で漁夫たちが祭った)の子を見つけその1人を都に連れ帰って、名を処容とつけたことに由来する。 処容は長じて、自分の妻の病気(厄神)を「歌と舞」で退治した。その言い伝えから、のちのち人々は処容の絵を門に貼って厄除けにした。これが竜の仮面を被り踊る「処容舞」となった。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |