「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―B権仁燮

新技術と日本のあけぼの

朝鮮から来た金属器と墓制


弥生時代

 弥生時代を特徴づけるものに金属器・青銅器がある。青銅器には剣、鏡、銅鐸・(どうたく)、矛(ほこ)、装飾品などがある。古くから朝鮮民族の生活の場であった朝鮮半島から遼東半島以東、松花江以南の現在の中国東北地方にかけての地域から出土した青銅器、鉄製農耕具などは弥生時代の北部九州、中国地方のものと深い関連性がみられる。とくに、琵琶型銅剣・細型銅剣はこの地域特有のものである。

 朝鮮特有の鏡として多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)がある。紐(つまみ)が2個あるいは3、4個付いており、円で区画された内・外区には直線で幾何学文様が描かれている。中国鏡とは異なり縁の断面が半円形である。

 銅鐸はその源流を朝鮮の馬鐸に求めることができ、日本に入って大型化、儀器化したものである。

 金属器の使用は石製道具に比べて巨大な生産力をもたらした。狩猟・採取に加えて農耕を飛躍的に発展させ、生産物に余剰をもたらすようになった。この余剰を独占する少数の「富者」とそうでない多数の「貧者」が発生する。支配する者とされる者との関係である。これを「階級分化」という。支配者はその死後までもその地位と権力を誇示するために大きな「墓」を作らせた。朝鮮に特有の墓制として支石墓がある。支石墓は蓋石とそれを支える四方の支石からなり、土中に埋蔵施設のあるもの、支石が土中にあるか支石がなく蓋石のみのものがある。

 支石のある形式のものが古く、朝鮮民族の生活領域にみられる固有の墓制であり、現在平壌を中心とした半径40キロメートルの地域で1万基以上が確認されている。中には蓋石が50平方メートル、重さ50〜60トンに達する大型のものや、墓の主人=権力者とともに数人〜数十人が殉葬されたものも発見されている。また、支石墓の中には北斗七星を始めとするいくつかの星座が彫られたものもある。このような巨大な墓の建造には大量の人力の動員とともに、高い技術水準が要求される。

 日本の支石墓は弥生前期に出現し、地域としては長崎県、佐賀県、福岡県、熊本県に集中する。中でも佐賀市には縄文晩期から弥生末期にかけての支石墓約180基が集中している。

 墓制としては他に甕棺墓がある。死者を甕(かめ)や壺(つぼ)に収めて埋蔵する葬法で、特に「金海式甕棺墓」はコマ型土器から変化した大型の甕を用いるもので、朝鮮西南沿岸地方と同じものが吉野ヶ里遺跡など北九州一帯の遺跡には出土する。これらの甕棺からは細型銅剣、多紐細文鏡などの青銅器が副葬されているものもある。

 墓制は最も保守性の強い生活習慣であり、他地方に移住した後にも長く慣習として受け継がれる性格を持つ。

 朝鮮からの移住者が日本列島内に定着した後も出身地の習慣を受け継いだものといえる。(クォン・インソプ、社協兵庫支部・副会長。第2週、4週の水曜日に掲載)

「歴史の窓」

 朝鮮民族特有の青銅器文化として、遼東半島を中心に5000年前頃のものが広く知られている。最近の朝鮮での研究成果は、銅矛は巨大支石墓が多数分布する平安南道徳川市の南陽遺跡出土のも 

のが、琵琶型銅剣は黄海南道峰泉郡、黄海北道新坪里出土のものが遼東半島よ 
りも古く、青銅器文化は朝鮮西北部で発生し遼東半島に波及したことを伝えている。

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