朝鮮の新聞、雑誌――朝・日関係の歴史解説

「朝鮮から伝わった稲、牛」

伝統的画法 普及・宣伝


 朝・日関係史をわい曲する日本の動きに対して、朝鮮の最近の新聞、雑誌などは、朝鮮と日本が古来から深い関係にあったこと、朝鮮文化が日本のあらゆる分野にわたって影響を与えたという、解説記事や資料を掲載した。その一部を紹介する。

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 日本の弥生文化は稲作を基本とする。その稲作は日本列島独自のものなのか、それとも外部によって発生したものなのか。外部のものだとしたら、どこから、いつごろ入ってきたのか。

 ゙喜勝博士(歴史学)は、「日本に渡った朝鮮米」(統一新報2月10日付)の中で、「弥生文化ー稲作は日本列島内で発生したものではなく、朝鮮人が日本に渡り普及した結果である」と次のように指摘した。

 「縄文人が日本列島内で飢えと滅族の危機にさらされようとしている頃、海に面した一角で稲作が始まった。その場所は北海道や本州ではなく、朝鮮と最も地理的に近い北九州であった。それを立証する代表的な遺跡が福岡県の板付遺跡である。弥生文化初期の遺跡として知られるこの遺跡からは、朝鮮の農耕土器が出土した。また朝鮮製の鋤(すき)、斧(おの)、収穫用の半月形石包丁なども出た。より重要なのは火で燃えた稲と、煮炊き用の甕(かめ)が出土したことだ。とくに稲は朝鮮の稲と同様に短いものであった」

 ゙氏は、「しかし日本の一部学者は栽培された稲を『ジャポニカ』型と呼び、それが朝鮮から渡った稲であるということを認定しようとしない」が、「朝鮮米は稲の長さと幅を比例していう『長幅比』が短いのが特徴だ。平壌市南京遺跡など朝鮮の各地で出土された稲と福岡県板付遺跡のそれはともに『短粒型』であった。にもかかわらず、『ジャポニカ』と呼ばれたのは、かつて朝鮮を占領した日本が国際学会で、先駆けて稲の名称をそのように登録したからである」と解説した。

 そして、「日本に稲の野生種がない以上…現在の資料を見る限り、縄文末期から弥生初期に稲が初めて現れ、それに伴って文化が発達したのは朝鮮による影響が大きい」と、雑誌『朝鮮学報』(49号)を引用しながら、「朝鮮の農耕文化はやがて東日本へと及んでいった」と強調した。

 ゙博士はまた、「日本に伝わった朝鮮ファンソ(黄牛)」(同上紙 3月24日付)の中で、日本の学界の解剖学的調査と文献に基づいて日本が古くから朝鮮牛を飼育していた事実を解説した。

 一方、カン・スンヘ氏(美術研究者)は、「資料『朝鮮通信使』を通じてみた朝・日美術交流」(「朝鮮芸術」1月号)で、通信使(1607〜1811年、12回)に随行した一流の画家たちは、日本の画家と交流し、数多くの優れた絵を残し、朝鮮の美術外交歴史に多大な功績を残したと指摘した。 金有声(1763年=11次)の「山水花鳥図屏風」、李聖麟(1748年=10次)の絵巻「槎路勝区」、金明国(1636、43年=4次、5次)の「寿老図」など、通信使の作品と活動内容を紹介しながら、朝鮮画の伝統的画法を日本の画壇に広く普及・宣伝するのに主導的な役割を果たしたと強調した。

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