語り継ごう20世紀の物語
「民族守り、大道歩め」
父の言葉守り通した 97歳の故郷訪問!
金吉徳さん(97)
故郷でも笑顔がかわいいと人気者に
日露戦争時に産声/朝鮮の受難史体現 今夏、孫たちに会いに平壌へ 実に71年ぶりの故郷であった。97歳になる東京・葛飾四ッ木分会顧問金吉徳ハルモニはこの春、第3次総聯同胞故郷訪問団に参加、1人娘の車茂任さん(54)とともに懐かしいわが家の門をくぐった。出迎えたのは、実弟、従兄弟をはじめ100人を超える一族たち。「肥沃(ひよく)な全南の大地と月出山の美しい自然。故郷を離れて一度も忘れたことはなかった」。ハルモニは3週間前、ついにまみえた故郷の余韻に浸っていた。 ハルモニが産声をあげたのは1904年。朝鮮の政治・軍事的制覇を狙った日露戦争勃発の年だった。その一生は他国にじゅうりんされ、慟哭(どうこく)に満ちた20世紀の朝鮮を体現するものだ。 生家は全羅南道康津郡にある。父は村の書堂(寺小屋)の訓長(校長)や区長を務めるほどの声望家だった。後に朝鮮総督府ができていつの間にか、田圃や畑や山をだましとる法律が交付された時も、豊富な知識を武器に村人のためにたたかった人であった。反日意識が強い父の気性は、村人から尊敬をあつめ、米や野菜を持参する人が絶えなかった。そんな父の下で成長した娘は、書堂で学びたいと願っていた。しかし、祖母の「女に学問はいらない」という反対で断念。その代わり、どこに嫁いでも困らないよう「絹織物、裁縫、刺繍、養蚕などの手仕事をオモニに厳しく仕込まれた」と語る。後に日本で住むようになって、敗戦後の食糧難の頃、「宮中御用達の帯締めを作るのを頼まれて、当時のお金1000円と感謝状をもらったこともある」。 23年、19歳で父が見込んだ2つ年上の車※(※=王編に基)環さんと結婚、16キロ離れた村に嫁いだ。学生の身だった夫は10日ほど新婚生活を過ごして、ソウルの大学に戻り、そのまま日本の大学に留学した。「夫と離れ離れに暮らす嫁をふびんに思った姑がこっそり食べ物をくれたこともあった。今度故郷に帰って、弟嫁と語り合った時、『やさしい姑だった』と話したら『自分には厳しかった』と言うので、2人で大笑いした」と声も弾む。 植民地下の朝鮮の暮らしは、ますます貧困が進み、心ならずも離農離郷する人が増大していった。 そんな折、家に汚い身なりの青年が現れた。よく見ると夫の車さんではないか。その時、みんなから「勉強して偉い人になると期待していたのに、何と言う見込み違いだ。(アイゴ、パラムナッタ)」と散々非難を浴びたとハルモニは苦笑する。28年、妻を迎えに来た夫と2人で渡日。 下関から大阪の玉出へ。朝鮮人には部屋を貸さないという大家を説得して、夫は朝鮮名を隠すことなく、部屋も借りてきた。翌年、長男が誕生。近所の奥さんが、かすり地1反、おしめ地3反など必要な物を用意してくれた。それから100日目に子供を連れて、故郷の実家へ。1年後に木浦から船で再び日本に戻った。 1930年代に入って、満州事変の勃発、日中戦争へと日本の侵略戦争はますます拡大していった。夫婦は大阪から東京に移り、葛飾区の柴又、本田、四ッ木を転々とした。懸命に働いた。商売は石鹸、乾物、書店、靴工場と何にでも挑戦した。「でも、夫は金儲けは下手だった」と言う。8人の子供に恵まれたが、暮らしは困窮する一方。2人の子を亡くした。太平洋戦争の開戦で、夫や職人を徴用に取られ「子供をどうやって食べさせていいのか、あの時が一番苦労した」。東京の空襲を避けて、千葉県の臼井に疎開した時には、実家で持たせてくれた絹織物を米と交換するなどして、育ち盛りの子供たちの空腹をしのいだ。 やがて待ちに待った祖国の解放。夫婦は喜びに浸り、祖国に凱旋した金日成将軍の消息に胸を踊らせた。「祖国を奪われた民がどれほどの苦労をしたか。異国で朽ち果てた同胞も数知れない。そんな暗黒から祖国を救い出してくれた将軍をどれだけ私たちが慕い、感謝の気持ちを抱いたか、今でも胸が熱くなる。今度、70年ぶりに帰った故郷で、親族一同にその恩を決して忘れてはいけないと、何度も申し渡した」とハルモニ。 夫婦は葛飾で、朝鮮学校の創設の準備に奔走した。「同胞の民族的な運動に弾圧の牙を向けていた警察に、夫は酒をふるまい、御飯を食べさせたりした。『エサをやれば、魚もつれる』と言って」。後に様々な闘争で弾圧事件が起きた時、この「エサ作戦」が威力を発揮し、危険を未然に防いだことも1度や2度ではない。48年の共和国国旗弾圧事件では、ハルモニは家を襲撃した警官隊と真っ向から対峙して一歩も引かなかったが、その直前にとっさの機転で国旗を米びつに隠し、旗を敵の手から守った。 激しい闘争心と聡明さ。この気質がいくつもの局面を救ってきた。東京第5朝鮮学校の創設以来、長い間夫とともに理事として財政面を支えた。また、女性同盟支部副委員長として外国人学校法案など日本政府の民族教育を否定する動きに抗して、いつも闘争の先頭に立った。「派出所に入って、朝鮮学校をつぶす法案に反対する署名をしろと言った事もある。朝鮮人が民族の言葉と文化を学んで何が悪いのかと。警官だから無理だと言うから、じゃあ、その帽子を脱いで、サインしなさいと迫ったこともあった。この年までただの1度も日本人に頭を下げたことなどない」とキッパリ。 61年に夫が死去。58歳だった。その直後、次男、3男が共和国に帰国。咸興医科大学付属病院長になった息子の活躍はハルモニの希望の泉でもある。「夏に平壌に行って、向こうの孫たちに会いたい」と心はすでに平壌へ。 祖国と指導者への揺るぎない愛が、苦闘の歳月を支えた。愛読書は主席の「回顧録」。祖国に捧げた主席の労苦を思うと涙が止まらない。亡き父は植民地時代、娘に送った手紙の中で「民族を守って、大道を歩め」と励まし続けた。再訪した故郷で父の墓前にぬかずき、娘は父の言葉を守り通したと、晴れやかに報告した。今の心境を「人生は草に宿る露、まもなく100歳、若者よ、統一めざし共に闘おう」と歌ってくれた。(朴日粉記者) |