新発見のキトラ古墳「朱雀」図

濃密な高句麗古墳壁画との結びつき

上原和(成城大学名誉教授)


キトラの古墳から発見された「朱雀」図
を掲載した南の中央日報(4月5日付)


江西大墓の四神図をほうふつ

 明日香のキトラ古墳から、彩色も鮮やかな躍動感あふれる「朱雀(すざく)」図が、いっせいに4月4日の新聞各紙に報道された翌々日に、私も明日香を訪ね、ひさびさに村長の関義晴氏にお目にかかり、このたびデジタルカメラによって映し出された「朱雀」図をはじめとする石槨(せっかく)内壁画の「玄武」「青龍」「白虎」の四神図(ししんず)と天井壁「天文」図の、すこぶる鮮明な写真7枚を頂いた。

 手にとって、じかに見た「朱雀」図の映像は、まぎれもない高句麗壁画古墳の四神図を主とした単室墳(たんしつふん)の「朱雀」図の系統であり、なかでも最終期に属する南浦市江西区三墓里にある江西大墓の「朱雀」図に最も近い。すなわち、新発見の「朱雀」図では、雉(きじ)に似た、頭の小さな、首の細い朱鳥(しゅちょう)が、胸を張り、両翼を大きく広げて羽ばたき、尾羽根を長く靡(なび)かせている全体のポーズ、また細部的には頭上の冠羽を靡かせ、また喉元に大きな肉垂れが見られる点など、江西大墓の「朱雀」図の特徴が継承されている。

 しかし、また江西大墓の場合、広げた両翼の肩部の強靭(きょうじん)さを示す骨片状が、キトラ古墳の「朱雀」図ではすっかり様式化して、翼の下まで囲み、内側が鱗状(うろこじょう)に装飾化されている。そうした様式化とともに、穏やかな明日香の風土への馴致(じゅんち)によるものであろうか、前者の剛毅(ごうき)さに比べると、後者には優美さがあふれている。

「朱雀」図の脚表現の相違はなぜか

 なお、キトラ古墳の「朱雀」図を高句麗系と目することに否定的な論者は、江西大墓の「朱雀」図では両脚をそろえて立っているのに対して、新発見の「朱雀」図では、両脚を左右に開き、飛翔(ひしょう)の姿勢を示していることを強調する。

 しかし、それは江西大墓の「朱雀」図は、墓室の入口の左右の南壁の縦長い壁画に、それぞれ1羽相対して山岳を踏まえて立っているのに対して、キトラ古墳の場合は、横口式石槨の南壁一面に、1羽のみ描かれており、しかも東壁の「青龍」図、南壁の「朱雀」図、そして西壁の「白虎」図と、時計回りに虚空を飛翔しているからである。江西大墓の天井持送(てんじょうもちおく)りの横長い側面壁、あるいは3角形をした隅持送りの底面壁には、虚空を飛翔する「鳳凰(ほうおう)」図が数多く描かれている。キトラ古墳の「朱雀」図の飛翔姿勢は、これらに近い。

 なお、さらに今回の映像で注目されるのは、鮮明に写し出された北壁の「玄武」図であるが、匍匐(ほふく)する亀が首を反転させて、亀の胴体にからんだ蛇と顔を向き合わせているポーズは、江西大墓の「玄武」図がいちばん近い。またキトラ古墳の「朱雀」「玄武」図に見られる、立体感を表す暈染(うんぜん)、すなわちぼかしの手法もすでに現れている。

明日香京と高句麗文化

 そこで、江西大墓の築造年代が問われるのであるが、高句麗壁画古墳の型式としては最終期に属しており、また天井中央に「黄龍」図が描かれているので王陵であることも明らかである。私は、江西三墓中、最大の規模と壁画の華麗さから推して、第25代平原王(在位559―590年)の陵墓と目している。治世32年、南北朝末の北斉・北周・陳、そして隋とも友好関係を結んでいる。また高句麗の使者が、わが国の越(こし・北陸地方)に漂着、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)に迎えられて入京した欽明30年(570)は、平原王12年に当たっている。

 もとよりこの江西大墓が完成するのは、次の第26代嬰陽(えいよう)王(在位591―618年)の代になってからであろうが、明日香の豊浦宮に即位した推古天皇は、早速にも推古3年(595)、すなわち嬰陽王6年に高句麗僧慧慈(えじ)を皇太子厩戸(うまやと)王の師として迎えている。わが国の文明開化の指導者となった聖徳太子の仏教は、この慧慈に負うところすこぶる多大であった。また推古13年(605)には、勅願(ちょくがん)によって法興寺(飛鳥寺)の新本尊が鋳造されるのに際して、嬰陽王から黄金300両が贈られている。なおその前年に定められた黄書(きふみの)画師は、高句麗出身者(「新撰姓氏録」)であり、さらに推古18年(610)には、嬰陽王から僧曇徴(どんちょう)と法定が遣わされ、曇徴は彩色・墨・紙などを作っている。こうした濃密な高句麗との文化関係のなかで、最新の天文図や四神図の手本が、今来(いまき)の漢人(あやびと)と呼ばれた高句麗からの新渡来者たちによって伝えられたことは、十分に考えられよう。

キトラ古墳の墓域は四神相応の地

 ちなみに、江西大墓の被葬者と考えられる平原王は、平崗上好王とも呼ばれたが、実際に現地に立つと、広々とした平原ではあるが、ゆるやかな南斜面に、左右に中墓・小墓を控え、まわりを遠く丘陵が囲み、また東方に川が流れており、まさしく伝統的な風水の思想による四神相応の地であった。

 それは、キトラ古墳の地相についても同様である。阿部山の南斜面に築造され、後方左右を丘陵で囲まれ、前方はキトラの呼称の由来となった北浦で、もともと河谷が湾曲して流れていたのである。やはり四神相応の墓域であることを示している。なお阿部山一帯は「大和國条里(じょうり)復原図」では、高市郡呉原(くれはら)条二里に位置しており、新旧の渡来者たちの定住地であったことが知られる。

【うえはら・かず】 文学博士。1924年生まれ。48年、九州大学法文学部哲学科卒業(美学・美術史専攻)。50年、同大学院文学研究科特別研究生修了、成城大学文芸学部長および大学院文学研究科長を経て、95年に退任。85年、社会科学院の招きで訪朝、98年再訪朝。ユーラシアから日本まで広く実地を踏査して展開された古代美術史論で知られる。主著に「玉虫厨子―飛鳥・白鳳美術様式史論」「斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論」など多数。

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