地名考−故郷の自然と伝統文化
慶尚南道−D「密陽アリラン」
民衆からこよなく愛される
司空俊
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「密陽(ミリャン)アリラン」を知らない1世同胞はいないと思う。その昔、両班官僚の手に掛かり、無惨にもこの世を去った密陽の娘、阿娘(アラン)を想い、この地の婦女たちが歌ったのが始まりという。
わたしをそっと覗いてください…/冬至、正月、寒日に 可憐に咲いた花を見つけたように/わたしを見つけてください… 「アリラン」という言葉はどこから来たのか、いくつかの由来がある。 @京畿道の離郎(リラン)説A慶尚道の新羅始祖王の王妃であった閼英(アルヨン)説B慶福宮を建立する時、大院君の民衆に対する財物略奪があまりにもひどかったので、民衆が「私は耳が遠いので聞きたくない、聞こえない」といったという、我耳聾(アイロン)説C慶福宮建立に動員された民衆が、古里に残してきた家族を想い歌ったという我離郎(アリラン)説D高句麗や新羅の地名によく付けられた「アラ」「アリ」がなまったという説E「峠」(アリラン峠)説。 このように多くの説があるほど、「アリラン」は今も昔も民衆からこよなく愛されている歌である。 現在、南朝鮮で「三大アリラン」と呼ばれているのは「旌善」(江原道)、「珍島」(全南道)、「密陽」である。その中でも、最も古いものに属するのが「密陽アリラン」だ。 在日同胞が歌う「アリラン」は日本帝国主義時期の民族受難の時代、村の崩壊、家族離散、強制労働などを暗示する近代のものが多いように思われる。 慶尚南道の海岸地方では古くから仮面劇が伝承されてきた。仮面劇は五広大、つまり5人の広大(俳優のこと)が演ずる五穀豊作を祈願する踊りである。もともとは、湖南地方で、旧正月15日に福を呼び鬼を追い出す土俗行事であったという。 仮面劇は必ず広い平野の中にある田圃とか畑、あるいは打作場(脱穀場)で行われたので、「野遊び」に似たようなものであった。暖かい季節になると、近所の若者や年配の人々が繰り出し花の下で歌い、踊る。人々は、安東家醸酒、高霊20酒、全羅竹瀝膏、金泉杜鵑酒などの酒を酌み交わし合いながら、和やかに振る舞う。 また、端午の日には朝鮮相撲大会が開かれたという。日本や中国では朝鮮相撲を相撲、角力、角戯、脚戯、角抵、角てい、高麗戯、僚こうと表すが、朝鮮語ではシルムである。シルムが文献に表れるのは高麗時期である。当時、シルムをする人のことを「勇士」と呼んでいた。日本では「力士」などといっている。 朝鮮相撲には3種の型がある。その1つは、左相撲。右足にあの「まわし=サッパ」をかけ、顔と肩を左に向けるものだ。次に、右相撲(京畿道と全羅北道は主にこの方法を用いる)。そして、帯相撲である。帯を腰に回して相撲をとるもので、主に忠清道でこの方法が用いられている。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |