それぞれの四季
知らないということ 朴c愛
朝鮮の古典や、朝鮮の漢文を教えていると言うと、時々聞かれる。「春香伝」以外に良い作品はないだろう、漢文などマスターしてどうするのか、中国語ならまだしもと。古典小説には「質の高い」作品も「質の低い」作品もあるだろう。良し悪しの判断は基準によって異なるので、「良いうんぬん」はあまり意味のない言葉である。「漢文など」という質問は、漢字から連想されるイメージでのみ発せられた言葉で、朝鮮の漢文と現代中国語は異なるものなのに同列に置いて比べようとする、そもそもが無理のある発想だ。近代以前の朝鮮に関する事を調べるためには、そのほとんどの文献が漢文で書かれているので漢文を知らなければ手も足も出ないが、現代中国語を知らないからといって不自由はない。野談、稗説(ペソル)と呼ばれる聞き書き、随筆、評論が一体となった形式の中で、数百年にわたって「怪談」は漢文で書きつづられているにもかかわらず、朝鮮には「怪談」はほとんどない、幽霊譚も然り、という「意見」に出あうこともある。だが、これらの質問はとくに悪意があるわけではなく、人がしばしば犯すささいな失敗だろう。講義中に「格闘技などうんぬん」と、格闘技のことをよく知りもせず、印象だけで言ってしまったことがある。猛烈に抗議する学生がいて、親切にも極真空手のビデオと本を貸してくれた。初めて触れる格闘技の世界に感動したのだった。よく知りもせず価値判断をしてはいけないと、格闘技の深夜放送が今も私を戒める。「知らない」ということは自分にとって「存在しない」ということなのだから。(朝鮮古典文学専攻) |