地名考−故郷の自然と伝統文化

全羅北道−A全州、群山

朝鮮武家屋、「古典美の都市」

司空俊

群山港 全州市内の瓦家群

 全州は気候温和、風光明媚で湖南地方の中心地であった。古くは弁韓、後白済に属し、新羅景徳王(742〜764年)の時に全州と呼ばれ、高麗時期には完山、李朝仁祖(1623〜1649年)の時、ふたたび全州と改められた(行政中心地であった)。

 1914年、湖南線が裡里を通過したため衰退したがその後、全羅線(1929年)が通過して、いくらか活気が出たという。

 家屋の80%ほどが朝鮮式で、住民は「古典美の都市」と自慢している。

 「全州ピビンバプ」「全州コンナムル(大豆もやし)クッパ」は、在日同胞社会でもよく知られている。

 1世たちの話をまとめてみると、湖南平野産の米、大豆もやし、小豆もやし、それに近くの山からとれた太くて柔らかいワラビ、赤い根っこのホウレンソウ、ユッケ(生牛肉)、炒りゴマなどが「ピビンバブ」の具だ。

 干し柿もよい。また楮(こうぞ)を原料にした朝鮮紙はいろいろあり、合竹扇、太極扇、窓戸紙、オンドル紙、画宣紙、五柄紙などは伝統工芸品であった。質がよいと評判の竹工芸品は長い伝統を持っている。

 後百済時代の44年間(892〜936年)、王都であったこの地は、李成桂(李朝初代王太祖)の本貫地であり、全州李氏の根拠地でもある。

 かつて全州は、全羅南北道と済州島を管轄下に入れていたので、主な行政機関が建てられ、商人たちでにぎわい、「ソウルと変わらない大都市」とさえいわれた。それで純朝鮮式の瓦ぶき家屋が残ったのであろう。

 湖南高速道路の開通により、それまで全州圏であった錦山と茂朱が大田圏に移り、高敞と淳昌が光州圏に入ってしまった。

 群山は1899年の開港以前、寒村であった。群山港は錦江河口をさかのぼること22キロメートル、左岸を占める河港である。内港と外港に分かれ、内港は土砂のたい積が激しいので、大型船は外港を利用している。

 李朝時代、貢米を納める倉庫があったが、日本の海賊が略奪に来たので、しばしば移転を繰り返した。

 植民地前後、日本がここから湖南の米を収奪したことは歴史的事実である。1910年以前、日本はすでに湖南平野の全羅北道の7地点に侵出していた。当時、朝鮮人戸数896戸に比べ日本人戸数は904戸と多かった。すでに米収奪の準備は整っていたのである。今も市街地には日本家屋が残っているらしい。

 1929年の統計をみると、群山港から輸出された物資の99%は米である。「米の群山港」とさえいわれたこの地に浮動桟橋をつくった日本は米を奪いつくし、それを「群山米」として日本の内地で売ったのである。

 益山は、朗山の竹細工、黄登の花崗岩などで知られる。黄登の花崗岩は、日本の侵略者たちが神社に使用するために乱掘していった。馬韓時代のものといわれる、高さ13メートルほどの石造6層塔も有名である。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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