地名考−故郷の自然と伝統文化

全羅北道−B金堤、井邑

「緑豆将軍」全王奉準

司空俊

全王奉準記念碑

全王奉準の生家


 金堤は大穀倉地である。有名な碧骨池は百済時代に掘られた歴史的な貯水池だ。今は4つの石碑が残る。

 現在の金堤郡に属する地域の古名は、百済時代の也西伊県、碧骨郡、首冬山県、豆乃山県、武斤村県なので、碧骨池の地名が残るのは珍しいといえよう。

 「三国史記」に「始開碧骨池   岸長千八百歩」という記録などがあることから、百済比流王27年(330年)のことであろう。

 李朝時代になって補修し、利用されたが、壬辰倭乱以後は利用されなくなった。堤防の高さは5.2メートル、長さは1800メートル、蒙利面積は1万町歩(約3305ヘクタル)、当時アジア最大の潅漑(かんがい)施設であったという。とにかく、「十無の面」(あるのは田だけという意味)といわれたほど、山も木もなく一面に平野が広がる。

 このあたりの米が金堤米である。金堤の南には、1300年以上の歴史をもつ百済初期創建の名刹(めいさつ)金山寺があり、かつては1000人の僧侶がいた。高さ18メートルの屋内弥勒(みろく)仏像など周辺には見るべきものが多い。

 井邑には、清泉が湧き出る。名勝地としては、井邑東南12キロメートルに位置する「南朝鮮の金剛山」といわれる内蔵山がある。紅葉の名所として、この地の人々は「春つつじ、夏緑樹海、秋紅葉」と自慢する。

 全山に松楓が茂生し、千古の深山と年間を通じて登山客が絶えることはない。甲午農民戦争時、農民軍が蜂起した斗昇山城などの古跡もある。

 封建勢力と外国の侵略に反対する農民軍の蜂起のなかで最も輝かしい位置を占める甲午農民戦争。その指導者、全王奉(王へんに奉)準(1854〜95年)は全州を占領したが、政府軍の攻撃があまりにも激しかったので農民軍をいったん解散させ、再度蜂(ほう)起した。

 全国的規模の農民蜂起に恐れをなした封建勢力は、農民軍を鎮圧するため清軍に援兵を要請、それに対抗しようと日本軍も朝鮮に侵入してきた。清日戦争を引き起こした日本軍に対して、公州の高地で農民軍は激しい戦いを繰り広げた。しかしその渦中で、全王奉(王へんに奉)準は淳昌で捕えられ処刑されたのである。時に41歳であった。

 全王奉(王へんに奉)準の生家は井邑郡下鶴面にある。佳井里の「黄土峠」には「東学革命記念碑」があり、「除暴求民」の文字が刻まれている。緑豆将軍と呼ばれた全王奉(王へんに奉)準を慕う歌、「緑豆将軍」の民謡が刻み込まれている。歌詞は次のようである。

 鳥よ鳥よ青い鳥よ/緑豆畑に降り立つな/緑豆の花が散れば/清泡売りの婆さん泣いていく

 清泡(チョンポ)は緑豆で作ったムク(ようかん状の食品)のことである。年配の方は歌ったことがあるかも知れない。

 甲午農民戦争は、近代兵器で武装した日本軍と政府軍を相手に最後まで戦った反侵略・反封建の農民蜂起として、アジアにおける民衆の反帝国主義闘争の先駆けとして大きな意義をもっている。
(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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