地名考−故郷の自然と伝統文化

全羅北道−C扶安、鎮安、南原

春香と李ドリョン、デートの場

司空俊

鎮安の名勝地、馬耳山 李香と李ドリョンがデートした広寒楼

 扶安(プアン)は辺山半島などの海岸美、山と渓谷の美が有名である。古くから江原道襄陽(ヤンヤン)の「洛山の日の出」と、扶安の「月明の落照」は朝鮮の東と西、両海岸の絶景として知られている。辺山八景、「湖南金剛山」などと呼ばれ、訪れる人も多い。下西面に「天落娘泉」がある。伝説では天女が地上におり高氏と結ばれた。仲のよい夫婦だったが、8年後、妻は天上に帰ってしまった。それまでに飲んだ水がここのものであったという。

 鎮安(チンアン)から3キロメートルほど行くと名勝地の馬耳山がある。馬耳山(667メートル)は父母山、夫婦岩などと呼ばれている。遠くから見ると馬の耳のような岩山に見える。この山の名称は、時代や季節によって呼び方が変わった。西多山(新羅)、湧出山(高麗)、束金山(李朝)、馬耳山(李朝)。春は帆峰(霧の中で帆柱のように見えるから)、夏は竜角山(蘆嶺山脈が角のようだから)、秋は馬耳峰(紅葉の中で馬の耳のように見えるから)、冬は文筆峰(斜面が急なので雪が積もらず筆のように見えるから)などである。ほかにすばらしい渓谷美の竜潭耶馬渓がある。この地方は雨量が多いため、家屋の屋根は傾斜が大きいのが特徴である。

 南原(ナムウォン)は蟾津江上流の中心地、「春香伝」と広寒楼で知られる。李朝時代に作られた代表的歌劇「春香伝」は民衆に親しまれた。貞節を守り、身分の差を乗り越えて李ドリョン(未婚男性の尊称)と結ばれた春香。2人のデ―トの場所が広寒楼である。当初は「広通楼」と呼ばれたが、鄭鱗趾(民族文字、訓民正音の創作者の1人)が全羅統察(役人)として南原に立ち寄ったとき、この地の景観に感嘆し、中国の古典に出てくる「月の国の宮殿」を表す「広寒」と比べたので広寒楼になったといわれる。古くから軍事的要衝であったため、城壁跡が残っている。全羅線開通(1936年)後は交通の要衝になる。智異山側からは良質材が産出されるため、木器と漆器、扇子などを造る。李承晩政権を倒した4.19闘争(60年)のきっかけのひとつである、中学生惨殺事件の当事者、金朱烈少年の出身地。

 全羅道は穀倉地帯であり、農謡が盛んである。農謡は「労作謡」ともいわれ、農夫らに伝わる俗謡である。朝鮮の農謡で代表的なものは、なんといっても「農楽」であろう。

 今でも名節にでもなると農楽を心ゆくまで楽しむ。同胞が農楽を楽しんだのも一度や二度ではない。

 朝鮮人であれば誰でも、この民族舞楽の調べを耳にすると、思わず肩が動き出し、浮かれ、踊り出したくなることだろう。本来は野良仕事の能率を高めたり、古老を慰労するためのものであったという。

 この風習は古くから伝わり、除草の時は「農者天下之大本也」と農旗(幟=のぼり)を立てて労役歌を唱った。除草が終わる八月には日差しを避け、木陰などで「農宴」や「農契」をひらき、食べ、飲み、歌い楽しんだ。10月の秋収(秋の収穫)の時はことさら楽しかったことだろう。

 「東夷伝」や「随書」にも記録が見られる故郷の農楽をともに歌い、踊ることを待ちわびている一世同胞たちの願いを、私たちは実現しなければなるまい。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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