ゆがんだ風景−「記憶の戦争」の現場で@

人間としての感性狂わす

子供の命奪う母/徴兵逃れ軍に通報

侵略戦争にかり出された日本の母親たち 三國連太郎さん

 新世紀を迎えた日本のゆがんだ風景。日本軍性奴隷を強いられた被害者らの証言に対する日本政府あげての否認や「新しい歴史教科書をつくる会」などの侵略戦争賛美の動きがエスカレートしている。日本においては、まさに戦争の記憶そのものが、「隠蔽、否認、歪曲、抹消という暴力にさらされている」(高橋哲哉「アウシュヴィッツと私たち」)。加害の記憶を消し去り、闇に葬り去ろうとする勢力との「記憶の戦争」は大詰めを迎えつつある。現代の「記憶の戦争」を追及してみたい。

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 1943年、12月。20歳だった青年は1人で大阪で働いていた。船の錆落とし、映画館の看板書き、掃除などの雑役など何でもやった。その最中、自分にも赤紙(招集令状)が来たことを知る。しかし、青年がとっさに思ったことは「戦争で殺されるのは嫌だ」「戦争には行きたくない」という思いだった。間髪入れぬ青年の行動は素早かった。大阪駅から、故郷の静岡とは反対の、西に向かう貨物列車にもぐり込んだ。「胸の中にむらむらと、死んでたまるか、という反抗心が込み上げてきたのです」。戦争遂行にまっしぐらの時代。疑問さえ許されぬ暗黒の時代の胸のすく判断力だった。「とにかく鉄砲を持たされて戦争に行き、人を撃つことに反射的に嫌悪を感じた」。紙切れ1枚で死ななければならないことに「どうしても納得がいかなかった」。

 徴兵忌避の逃亡から4日目。無賃乗車で貨物を乗り継ぎ、山口県の小郡まで来たとき、ふと、母を思った。そして、母当てに手紙を書いた。「何としても生きたいので逃げる。親や兄弟に迷惑をかけるが許してほしい」という文面だった。しかし、母の通報で逃亡計画はあえなくとん挫。「あっけなく捕まり、たちまち連れ戻され、静岡の連隊に入れられました」。没落した網元の家の娘だった母は、「家」のため黙って、戦争に行くことを息子に迫り、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したに違いなかった。

 この青年こそ、若き日の俳優・三國連太郎さん(77)その人であった。今も母への思いは胸の奥に沈殿する。「子供を生み育てる能力は女性にしかないもの。新しい生命を育むことを摂理とした母親が、子を死地に赴かせることに手を貸すことは、どれほど辛かったでしょう。母の人間としての感性を狂わせたのは、明治以来の軍国主義の政治や教育だったと思う。1人では逆らいきれない国家の暴力によってねじ曲げられたのです」。

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 人並みに扱ってもらいたいとの女のいじらしい願いを巧みに利用して、国のために笑って死んでいくことのできる子供を育てることにまい進させた国と、その企みに気づかず、認められることの嬉しさにわれを忘れ、気がついたら子供の命を奪う側にいた女。この図式の果てに三國さんが見た世界は――。

 中国の前線に一緒に行った部隊の総勢は千数百人。しかし、三國さんと共に無事に再び祖国の土を踏めたのは2、30人に過ぎなかった。

 「中国の奥地の漢口で見たのは、衝撃的でした。朝鮮女性を慰安所に押し込め、そこで兵士たちになぶりものにされる。日常の風景でした。今、日本の政治家のトップの人たちは、僕と同世代の人たちもいます。知らなかったはずは絶対ありません。それを口を拭ってシラを切ってしまうというのは、日本の戦後を端的にさらけ出すものでしょうね」

 自分の過去を直視し、加害者の側面を見つめない限り、次の世代、あるいは未来の平和には到底、結びつかないと、三國さんは語る。

 歴史から長い間排除され、抹消されようとした女性たちが勇気を奮い起こして行った証言を「ウソ」と決めつけ、責任を果たそうとせぬ日本は、どこに行くのか。

 かつての「息子を売った母」をまた、作りだそうとしているのか。記憶と忘却のせめぎあいは続く。(朴日粉記者)

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