消される史実、若い世代に伝える
朝鮮人強制連行の事実明記
表示板の前に立つ黒須会長 | 日立航空機千葉制作所大網第1工場E坑口前 |
戦時中、日本海軍のゼロ戦練習機とエンジンが製造されていた日立航空機千葉製作所大網第1工場(千葉・大網白里町)。同工場のE坑口前に、数百人にのぼる朝鮮人の強制労働によって工場建設が行われたことを記録した表示板が立てられた。日朝友好大網白里町民の会(黒須俊夫会長・72)と大網白里町教育委員会の連名によるもの。朝鮮人強制連行の真相調査活動を行っている市民団体と、地元の行政機関が共同でこのような表示板を立てたのは全国でも初めてのことだ。12日に公開集会が現地で行われ、表示板建立に向けて6年間地道な活動を行ってきた町民の会メンバー、強制連行と栃木・足尾銅山での強制労働体験を国連人権委員会で証言(九三年)、現在は全国各地で講演を行っている千葉県在住の鄭雲模さん(80)ら朝・日の関係者が出席した。
政府への批判込め 表示板が立てられた工場跡地は、JR大網駅から車で5分ほどの本国寺の敷地内にある。樹木が生い茂った静かな場所だ。 同工場では戦時中、軍と建設業者が共同で航空エンジンと機体を製造していた。もともとは千葉市蘇我町にあったが、空襲にあい1944年12月、大網町に疎開。工場建設には、強制連行された400人以上の朝鮮人が従事させられた。 町内の32ヵ所に地下・半地下工場があったとされるが、現在残っているのは第1〜第5工場だけ。大小合わせて36本の工場トンネル(総延長3キロメートル)だ。90年代から進められた都市計画により、ほとんどの跡地が道路や団地に姿を変えた。 こういった経緯からも、当時の朝鮮人強制労働の事実を知らせる表示板を立てる必要は十分にあった。 町民の会側は「意図的に消されていく史実を若い世代に伝えることは義務だ。戦争責任から逃れ、歴史認識を改めない日本政府への批判と平和への願いを込めた」と設置理由を語る。 地道な聞き取り 黒須会長は91年、千葉県高等学校教職員組合からある依頼を受けた。 「戦時中に建設された工場跡が大網町に現存している。そこで、多数の朝鮮人が強制労働させられていたらしいので真相を調査してほしい」 黒須会長は、30年以上社会科の教師をしていたこともあって歴史問題への関心が高く、早速調査に乗り出した。朝・日合同調査団も間もなく結成された。 調査団はまず、工場所在地の確認に取りかかったが資料はない。そこで当時を知る人の証言を得ようと聞き取り調査を行うことにし、毎日のように町役場や地域住民宅を訪ね歩いた。 しかし、なかなか証言を得ることはできなかった。軍の機密である輸送機の部品運搬などは深夜に行われ、工事自体も公にされていなかったからだ。方法を変えようと、戦争体験者らに公民館に集まってもらい、それぞれの記憶の断片をつなげていく作業などで補てんしていった。 その過程で、現場で使用されていた地図の原寸大コピーを入手した。黒須会長らはそれを元に新たな地図(表示板左上に貼付)を作成し、正確な工場所在地の確認と現地調査を行った。 一方で、多数の朝鮮人が同工場建設のために強制労働させられていたことを裏付ける資料も入手した。「内鮮報告書編冊、特別高等課」という冊子である。 その中の、千葉県東金警察署長が県知事にあてた朝鮮人動態調査に関する公式文書「特高第941号」(45年9月29日付)に203人の朝鮮人が建設に動員されたと記述されていた。 強制労働体験者である町内在住の在日朝鮮人2人からも証言を得た。当時、町内には寺院や倉庫など28ヵ所に朝鮮人の飯場があり、推定400人以上の朝鮮人労働者が生活していたことがわかった。 どう守り伝えるか 94年11月、調査結果をまとめた表示板を設置し、町をあげて正しい歴史認識を持とうと、町民の会が結成される。会には、合同調査団メンバーをはじめ、教職員、公務員ら約40人が参加した。 町民の会は町教委に表示板設置を要請。4ヵ月後の95年12月に受け入れられた。 「わが国は、アジア諸国やその他の人々に甚大な禍害を加え…」という記述を含めた表示内容のすべてが事実であることも、町教委が認めた。 両者の連名で表示板を設置しようと打診してきたのは町教委側。町民の会は、「われわれの調査活動を認めてくれた。日朝友好促進の一助になれば本望」と承諾した。 「表示板は10年間におよぶ調査活動の結晶。今後はこれをどう守り、伝えていくかが課題」と黒須会長は語る。 町民の会は、町内の日本学校に実地見学を促しながら、3年前から実施している千葉朝鮮初中級学校生徒らの実地見学案内や、同校での講演、会のメンバーらによる朝鮮通信使などの歴史学習会などを続けていく予定だ。(順) |