「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―E朴鐘鳴
飛鳥・天平文化の基層
担い手は朝鮮三国からの渡来人
古代社会における文化の伝播(でんぱ)のありようは、文化そのものだけがある地域に移っていくようなことは基本的にありえず、必ずある文化の担い手としての人間の移動があってのみ初めて可能である。現代社会と違って、手段としてはそれしかないのである。
ところで、5世紀前後の日本は、奈良地方を中心に大きなまとまりを示し始め、それが周辺地域を取り込んでいきながら支配体制を確立し、国家形態を形作っていった。 この時、支配体制の確立と農地の開拓、灌漑(かんがい)工事などに、新しい形態と技術の担い手となったのは、朝鮮三国から日本に移住した人々であった。この頃には朝鮮三国との往来も繁くなり、日本の奈良地方を中心とした周辺地域には朝鮮からの移住民が定着し、根づいていく。百済から文字(漢字)をつたえたのもこの頃である。 5世紀後半から6世紀にかけて、従来とはことなったより新しい文化、技術の担い手たちが続々と朝鮮から渡日し、政治、経済、文化のすべての面で強く深い影響を与えた。 日本史ではこれらの技術者を「今来才伎(いまきのてひと)」と呼ぶ。「今来」は「新しくやって来た」、「才伎」は広義の「技術者」の意味である。 仏教や儒教などの思想、そして建築、製陶、造仏、機織や鍛冶、絵画、武具、墓制などについての新技術が朝鮮から導入されたのはこの頃であり、日本の飛鳥文化もこれらの影響下で開花発展したといえる。 7世紀中葉、新羅は唐と同盟して高句麗、百済を攻撃、660年に百済を、668年に高句麗を亡ぼした。 高句麗と百済の遺民たちの一部は日本に亡命を余儀なくされ、旧来から近畿地方を中心に根づいていた朝鮮三国出自の人々ともども、奈良時代(ほぼ700年代)全般にわたって活躍し、日本の天平文化の基本的な担い手となっていく。 これらの人々は、その居住地域で相応の地位と勢力を築き、古代日本の中央政治とも関わりを保ちながら、政治、経済、文化の各分野で当代をリードする存在でもあった。彼らは、自分たちの信仰にしたがって氏寺を建て、氏族の祖先を祭り(神社として残る)、死亡した長を葬り(古墳として残る)、自らの技術によるさまざまな遺品、遺物や建築そして仏像などなどを現代に残した。時には、彼らの出身国が居住地の名称となり、歴史的遺称として現代に受け継がれた。 つまり、この時代は、限定的ではあるが、多様な「国際化の時代」であったといって良いであろう。 以後、数回この時代について書く。 「歴史の窓」 古代日本の技術者(8世紀)
平安時代初の貴族(ほぼ近畿地方一帯)
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