地名考−故郷の自然と伝統文化

全羅南道−A木浦、珍島、海南

年に1度海に「道」が出現

司空俊

木浦市街 珍島犬

 木浦(モクポ)は地図でさがしても、その辺りがどうなっているのかよくわからないという人が多い。務安半島の最西南端、栄山江河口に位置しているが、海に沿って地形が入り組んでいるため、半島部に位置していることがわかりにくいからである。木浦は儒達山(ユダル山、228メートル)が北風を防ぎ、高下島と花源半島が南風による外海の風波を防ぐ良港。儒達山は「木浦のシンボル」、「湖南金剛山」などといわれる。

 高速フェリーは済州までを5時間30分で結ぶ。最近は周辺住民の生活圏が光州に移り、珍島も独自の道を歩み始めたため、済州行きの定期船の一部は釜山と麗水に移された。道路が完備されるにつれ、直接陸路で目的地に向かう人が増えたため、かつてのにぎわいは見られなくなった。

 1897年に開港。中国の青島、上海、日本の長崎に近いことから、湖南平野の中でも米と綿花の収奪地とされた。「南綿北羊」といわれる日本の植民地政策によって、湖南の三白(米、綿、マユ)の内、全南平野から収穫される米の4分の1、綿花の3分の1が木浦に集中した。米は群山港から、綿は木浦港から日本に運ばれた。そのため「米の群山」、「綿花の木浦」と呼ばれた。この悲しい時期を象徴する歌として、哀愁漂う「木浦の涙」が生まれた。

 歌にうたわれる三鶴島は今は陸続きである。

 ではなぜ、綿花が木浦で集中して栽培されたのか。まず、この辺りの土地が比較的に乾いていたからだ。綿花は湿潤を嫌うのである。第2に、日照時間が長いことがあげられる。綿花は「太陽の子」といわれるほど日光を要求する。そのため、日本は植民地政策の一環として、木浦を綿花栽培地に選定した。その歴史は、高下島でアメリカ産綿の栽培に成功して以来だ。

 珍島(チンド)は南で3番目に大きな島である。番犬や猟犬として優秀な珍島犬が有名だ。

 生薬として利用されるムカデも評判が高い。白鳥の渡来地でもある。なお珍島近海は壬辰倭乱の時、朝鮮水軍が300余隻の倭船を撃破したところである。

 島の東南、古都面から沖合の茅島(モド)の間の2.8キロメートルの海では最干潮の時、1、2時間にわたって幅30〜60メートルの海底に「海割れ道」が出現し、歩いて渡れる。年に1度最干潮日におきる。この時期に合わせて霊登祭が行われる。

 珍島アリランはご存知の向きも多いだろう。特徴は繰り返しのところである。

 /アリアリラン  スリスリラン  アラリガ  ナンネ/アリラン  ウンウンウン  アラリガナンネ/

 この「ウンウンウン」の鼻声で歌うところが面白いと、この歌を知るものはしきりに懐かしむ。珍島の人々は農業で生計を立てている。田植えも草取りも、民謡を歌いながら行う風習が残っている。

 海南(ヘナム)半島は朝鮮の陸地の最南端にあたる。壬辰倭乱の時、この半島と珍島の近海を流れる時速15ノット(時速約28キロメートル)の潮流を利用して、わずか12隻の亀甲船で300余隻の日本艦船にうち勝った所として知られる。ここのサツマイモは甘みが強いので有名だ。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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