語り継ごう20世紀の物語
安順伊さん(69)
ひたむきな人生、今、苦労の分の大輪の花が咲く
厳しい時代を懸命に生きた家族の歴史を本にした安順伊さん | 安さんの本を読んだ日本女性から寄せられた手紙 |
安さんがカルチャーセンターの「エッセイ入門」教室に通い始めたのは、8年前だった。「小学校も卒業できなかったので、最初は辞典の引き方も分からなかった。文章もどう書いていいのか、本当に困った。字は子供みたいで、人前に出せるようなものではなかった」。しかし、紡ぎ出す一文は、厳しい時代を懸命に生きた家族のひたむきな姿。真実の言葉ほど、人の心を揺り動かすものはない。6年間、安さんを指導してきた宮下展夫講師も「安さんの文章には、心の優しさと同胞への熱い思いが感じられ、読者を引きつける」と絶賛、「ぜひ本にした方がいい」と勧めてくれた。教室の仲間の中村恵子さんらが、何百枚のワープロ打ちを引き受けてくれた。周りの人々に支えられ、2年前に、自伝「海をわたった家族」を刊行。本を読んだ日本の女性からは、感想を書いた巻紙が届いた。
「…いい本です。ご両親、あなた、すべての人たちが一生懸命生きてきた、その思いがこちらの胸に清らかな水の流れのように伝わってきます。深く頭が下がります。…今苦労の分の大輪の花が咲いています。おめでとうございます」 予想もしなかった反響の大きさ。「日本自分史大賞」の佳作に選ばれたり、遠くから同胞女性たちが会いに来てくれたり。また百通近い感想文も寄せられた。一通一通に目を通し、心を込めて返事を書く日々が今も続く。そしてやっと今月、北海道に眠る父母の墓前に、この本を捧げることができると微笑んだ。 この本が生まれるきっかけになったのは、47歳の母の死。「オモニ、あなたの一生が決して埋もれないよう、本に書き上げます」と、当時20代だった安さんは霊前に誓った。しかし、それからも辛苦の日々が続いた。夫が結核に倒れ、一家の暮らしは安さんの肩にずっしりとのしかかった。育ち盛りの1男4女を抱えて安さんは焼肉屋を始めた。午前10時から朝の3時まで、文字通り不眠不休で働いた。それから40余年の歳月が流れ、子供たちも結婚、孫も14人になった。時間の余裕もできて、やっと静かな時間がとれると思った矢先、夫が先立った。この10年は、悲しみを忘れるかのように、オモニとの約束を果たすため本の執筆に没頭したのだった。 安さん一家は60年以上前、故郷・慶尚北道星州から渡日。7歳だった。 「アボジは北海道の尺別炭鉱に徴用され、危険な坑内に毎日通っていた。冬でも防寒着もないまま働かされた父が可愛そうでならなかった。オモニも薄いチマ・チョゴリで冬を過ごしていた。食べ物もなく、八百屋の店先に捨てられた野菜くずを拾ってきてキムチにしていた」 過酷な労働と絶え間ない事故。アボジは憲兵や警察の目をくぐり抜けて、美唄へ。しかし、ここも追われて、一家で東京・上野、千葉県茂原の飯場へと移り住んだ。解放前年には茂原の小学校に12歳・4年生として編入。ここでは、酷い差別に苦しめられた。「朝鮮人と分かったとたん、級友らの態度が変わり、話かけても知らんぷり。仲間外れにされ、弁当のおかずの大豆もやしを、回虫だとはやし立てられた」。 さらに打ちのめされたのは、泥棒のぬれぎぬを着せられたことだ。「わざと机の中に帽子を隠して、私に罪を着せる。集金したお金がなくなると、私が盗んだとみんなの目がいっせいに注がれた」。その時はなぜ、こんな理不尽な目にあうのかと、悔しくて仕方なかった。学校に行きたくない、でも無学になりたくない。気持ちが揺らいだ。結局、学校をやめた。やがて祖国の解放。十四歳だった。それからの同胞たちの頑張りは目覚ましかった。「朝聯の支部が結成され、夜学が始まった。学校に行きたくても行けなかった私は喜びいさんで通った。朝鮮の言葉や歴史を一から習いはじめて、やっと分かったことがある。なぜ、同じ人間なのに日本に来て、父母があんなに苦労したのか。そもそも、朝鮮にいればいいのに、なぜ、同胞たちが日本に来なければならなかったのか」――。 目からうろこが落ちるように、安さんは悟った。一家のかん難辛苦の訳が日本の植民地支配にあったことを。一時とは言え、父母を恨んだことを恥じた。解放された祖国を背に、朝鮮人としての誇りを取り戻す新たな闘いが始まった。茂原で夜学の先生だった夫と16歳で結婚。 「朝早く起きて、東京朝高に通う同じ年のシヌイたちのご飯の支度をして、弁当を作ってあげた。私も学校に行きたいと痛切に思った」。食糧難の時代、大家族の食事を切り盛りするのは大変だった。しかし、弱音を吐かず、愚痴もこぼさず頑張った。朝鮮学校の創設に参加、女性同盟の分会、支部の財政部長まで任された。明日の米がなくても、帰国実現や祖国への自由往来を求める千葉や日比谷公園のデモに駆けつけた。「東京までの往復の交通費しか持たず、デモに参加したことがあった。デモの後、参加者がアイスクリームを食べていた。欲しくてもお金がない。そんな時、千葉のある同胞がアイスクリームをごちそうしてくれた。あのありがたさは忘れられない」。 子供全員を片道約3時間かけて茂原から東京朝高に通わせたのも、安さんの何事にも譲れない信念だった。「祖国あってこその幸せ。民族教育こそ私たちの生きる拠り所だった。生活は苦しかったけど、子供たち全員に民族教育を受けさせたことは私の誇り」。 自伝を書き上げた母に娘たちは、小さなダイヤモンドをプレゼントした。それは、ひたむきな母の人生への心からの賛歌だった。 (朴日粉記者) |