「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―F朴鐘鳴

日本最初の本格的寺院−飛鳥寺

高句麗文化の影響も


飛鳥・天平文化時代

 日本に仏教が公伝するのは百済からである。538年のこと。仏教は伝わったが、本格的な寺院はまだない。そこで588(崇峻元)年、日本は百済から僧侶、寺工(建築技術者)、鑢盤(ろばん)博士、瓦博士、そして画工などの集団を招いて寺院の建築にとりかかり、596(推古4)年にほぼ完成させた。これが飛鳥寺(法興寺)であり、日本最初の本格的寺院であった。

 以上は「日本書紀」崇峻元年条の記述である。しかもこの寺の本尊である「飛鳥大仏」を鋳造したのは、百済からすでに渡日していた技術者、止利(鳥・禽=とり)仏師であった。606(推古14)年に完成をみたこの「飛鳥大仏」鋳造の功績によって、止利は、時の政府から「大仁」の位と、近江国坂田郡の地に水田20町を得た。「大仁」の位は、当時の12階の冠位のうちの第3位である。

 止利の手になる仏像は際だった特徴があり、一般に「止利様式」といわれる。この「飛鳥大仏」も同様式であり、特に著名なのは法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像である。

 止利様式の造像形式は百済の仏像と酷似しているのに驚くばかりである。立像も坐像も、顔立ちも、目・耳・口・鼻も、衣文も、正面観も同じである。

 それも当然で以上のように飛鳥寺は百済一色で成立したものであったからだ。

 ところで、百済一色の飛鳥寺ではあるが、伽藍(がらん)配置だけは別格である。一塔三金堂様式と呼ばれるもので、塔を中心に、東・西・北に金堂を配し、塔の南に中門、北(中)金堂の北に講堂が位置する。

 この伽藍配置の源流は高句麗にある。代表的なものとして、平壌の金剛寺(クムガンサ)址(解放前発掘調査)の伽藍配置や、同じく平壌の定陵寺(チョンルンサ)址(近年、共和国の考古学者によって発掘された)のそれが、日本の飛鳥寺と共通する配置を示す。

 飛鳥寺の一塔三金堂様式の伽藍配置は、全般の状況から見て百済から伝わったものと思われるが、百済のそれは高句麗から直接受け入れたものであろう。

 あるいは日本のそれは高句麗からの直伝かもしれない。というのは、飛鳥が日本の中心地であった頃、百済や新羅からはいうまでもないが、高句麗からも高僧たちがしばしば渡日しているからである。595(推古3)年、聖徳太子の師となった恵慈(えじ)、610(推古18)年に渡日し法隆寺金堂の壁画を描いたといわれる曇徴(どんちょう)、そして法定(ほうじょう)、625(推古33)年には恵灌(えかん)が渡日した。また飛鳥大仏の鋳造に高句麗の大興(嬰陽=ヨンヤン)王が黄金を贈って助成した事もあった。

 特に、高句麗出身の恵慈と百済出身の彗聡とは、飛鳥寺がほぼ完成した596年、この寺に住んだ。

 これらの僧侶たちによって、寺院建築の基本プランである一塔三金堂様式の伽藍配置が伝えられた可能性も高いのである。

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