地名考−故郷の自然と伝統文化

忠清北道−A清州と忠州

「鴨脚樹」と呼ばれるイチョウ

司空俊

有名な鴨脚樹 達川江

 清州(チョンジュ)は1908年に道庁が忠州から移転した後、行政、教育の中心地になった。霊峰俗離山登山の玄関口である。ソウルからは130キロメートルの田園都市で、清州盆地の中央部に位置する。美湖川流域の清州と清原は、忠清北道で最大の穀倉地帯であるが、残丘が多いため、農作業をする人も困難を来している。市街地と農村地域が混在しているのも特徴だ。百済時期は上党県、新羅時期には西原小京と称され、高麗時期以後に清州(940年)になった。商業都市でもある。教育が盛んな土地柄で、住民の40%が高等教育を受けている。

 東北部の上堂山(491メートル)には三国時代の石城が残る。この城は延べ30万人を動員し、7年かけて築造された山城で、別名清州邑城ともいう。後三国時代には王建が唐羨(ダンソン)城を築造して後百済攻略の基地にしたという。清州古印刷博物館には世界最初の金属活字と、それで印刷した書籍が展示されている。

 忠清北道と慶尚北道の境界あたりの月岳山(1093メートル)には、16峰の奇岩絶壁を持つという景勝地があるが、清州からバスで1時間20分の距離である。東方16キロメートルにある椒井薬水は古くから利用された天然炭酸水である。硫酸塩、珪酸を含み、皮膚病、眼科疾患や胃腸病、高血圧などの成人病に効果があるという。歴代の王たちが治療したとの記録もある。

 清州中央公園に「鴨脚樹」と呼ばれる、樹齢1000年以上とみられるイチョウの木がある。高麗末、鄭夢周と李成桂が政争をしていた際、大洪水があった。敵味方なく難を逃れるためイチョウの木によじ登ったが、罪のあるものは流されたという伝説がある。イチョウの葉はウチワに似ていると言われるが、「鴨脚」というのがおもしろい。実はヨーロッパの文献も、「鴨脚樹」と紹介している。

 忠州(チュンジュ)には忠州肥料工場がある。かつては南朝鮮の窒素、尿素肥料生産量の3分の1を占めていたこともある。忠州から西方に3キロメートル離れた高台に弾琴台という場所がある。有名な音楽家で伽★(人偏に耶)琴(かやぐん)製作者の于勒(ウルク)がここで琴を弾いたと伝えられている。朝鮮軍が豊臣侵略軍を相手に達川江に臨し背水の陣を布いたところで、碑石がある。

 かつては内陸地方の交通要所であった。なぜなら嶺南、湖南地方からソウルに上京する者は忠州まで来て、ここから船便を利用したからである。さらに、周囲が山地や丘陵に囲まれ、北に達川江が流れるという、天然の要塞でもあった。古くは高句麗に属し、新羅時代にはこの辺りが国土の中央部にあたった。「中原京」という小京を置き、長い間行政の中心地であった。それで「忠州」と「清州」の頭文字をとって忠清道という名称が生まれた。

 しかし、1908年、道庁が清州に移転してからは発達が遅れた。「忠州」という地名は国の中心という意味からきている。次回に紹介する中原郡は忠州を取り囲んでいる。国の中心、すなわち「中」+「心」は「忠」になる。

 忠州の南方21キロメートルには水安堡温泉がある。泉温53度、弱アルカリ泉で温泉町らしい雰囲気があるという。ここから東南12キロメートルに忠州ダムに沈んだ遺跡を移した「清風文化財団地」がある。
(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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