地名考−故郷の自然と伝統文化
忠清南道−@湖西地方
豊かな大地に開花した百済文化
司空俊
鶏竜山 | 男妹塔 |
忠清南道は南朝鮮の中西部に位置する関係から自然地理学的にも人文学的にも、中部地方と西部地方の両方の性格がよく表れている行政区である。忠清南道と忠清北道を併せて湖西地方と呼ぶ。忠清北道東部、堤川(チェチョン)の義林池以西に位置しているからである。
古くは馬韓、百済、高麗、李朝に属したが、近年、高句麗時代の史跡が発見され、歴史学上、今までの見解を大きく修正しなければならなくなっている。 李朝初期から忠清道と呼ばれ、1896年に南北に分離した。 浸蝕によって地形が低くなり平均高度は100メートルほどと低く、なだらかな丘陵地が散在する。1000メートル以上の山地のない低山性山地。最高峰は鶏竜山(ケリョンサン、828メートル)である。 内浦平野は論山(ロンサン)、江景(カンギョン)を含む湖南平野の延長線上にある。錦江によって浸蝕され、大部分が準平原化されており、肥沃な農業地帯。この豊かな大地に百済文化が開花した。現在、面積の3分の1が農地で、住民の七五%が農民だ。 気候は畿南地方と湖南地方の中間。気温は北部で平均11度、南部で12.5度と温暖。降水量は1000〜1300ミリメートルで、山間盆地の公州は1300ミリメートルである。 植生をみると、カラムシ(麻の一種)は牙山湾付近と扶余を結ぶ線、竹の北限は唐津と天安を結ぶ線上にあるが、全般的には貧弱だ。そのため、鶏竜山では樹木を保護している。 海産物では、春にはイシモチ、マグロ、冬には小形だが味の良いタラが水揚げされる。 忠清南道は農業中心の前近代的社会構造が強く残っている地方だといわれる。 馬韓時期には文化の発達した地方で、百済時期には熊州(現在の公州)、扶余が国の中心地になったこともあった。李朝初期には鶏竜山麓の新都内への遷都が検討されたこともあったと伝えられる。古い風俗は今も残り、鶏竜山麓の新都内には100余の宗教団体がひしめいている。世情が不安定になるとこのような団体の勢いが増すという。一人一教の割合で存在すると言われるほどだ。 扶余五層石塔、論山灌燭寺、鶏竜山などが名勝地にあげられる。 鶏竜山は儒城温泉から北に10キロメートルほどの場所に位置する。山稜線が鶏のトサカに、山並が竜の背中のような形であることから名付けられたようだ。山紫水明の「明堂の地」として中国にまで知られた山である。 李朝の始祖李成桂は首都の候補地として、この山の麓の新都内を選定したことがある。実際に工事も進めたが、交通の便が悪かったため取りやめ、ソウルに変更した。この工事の際に運搬された柱礎石が残っている。このとき、どれほどの人間を動員したかを知る手がかりの1つが「土払い塚」だ。人夫の靴についた土を払ったのが積もり積もって「峰」になったという。 古跡としては甲寺、尼寺の東鶴寺、兄と妹が恋に落ちて心中し、石塔に姿を変えたという男妹塔、新元寺(今は軍事基地の中にある)がある。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |