「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―H朴鐘鳴

舞楽−三国から日本へ

エキゾチックな音楽と舞


飛鳥・天平文化時代

 古代日本における、舞楽の歴史的背景をみると、それは朝鮮との関わりに始原する。

 453(允恭42)年、新羅楽は日本に伝わり、楽人80人が始めて舞楽を人々に披露した。

 554(欽明15)年には百済から、易博士、暦博士らと共に楽人4人が来日し、既に来ていた楽人たちと交代したとあるから、554年以前、既に百済楽人は日本にきていたことになる(「日本書紀」)。

 高句麗楽(日本では高麗楽)については、684(天武12)年正月、「高麗・百済・新羅の三国楽を奏す」とあるから、これ以前に日本に伝わっていたことは間違いない。

 また、612(推古20)年には、百済の味摩之(みまし)が伎楽舞(くれがくのまい)をつたえたので、彼を大和国の桜井(奈良県桜井市)に安置し、真野首(まののおびと)弟子と新漢斉文(いまきのあや、さいぶん、百済人)の2少年にこれを学ばせた。

 702(大宝2)年になると、「雅楽寮」という中央官庁が設置され、朝鮮半島から渡日した高麗楽士・百済楽士・新羅楽士それぞれ4人の指導者の元に、学生もそれぞれ20人を配して、朝鮮三国の舞楽を学ばせた。この雅楽寮制に基づく楽器はいずれも朝鮮三国由来のもので、三国ともに、横笛(いわゆる高麗笛で六孔。中国の唐楽用の龍笛は七孔)、箜篌(くご:縦型ハープ。いわゆる百済琴で正倉院に遺品がある。同所に新羅琴と呼ばれる遺品もある)、莫目(まくも:ひちりきの一種)、そして太鼓である。

 高句麗が668年に滅び、その後を継承した渤海が成立すると、日本ではいち早くその舞楽を取り入れた。「渤海楽」である。高句麗のそれに等しいものと言ってもよいであろう。

 この渤海楽は、日本の宮内庁楽部中の古鳥蘇(ことりそ)、新鳥蘇、綾切(あやきり)大靺鞨(だいまいか)、新靺鞨として残っている。

 9世紀中葉(平安時代初)になると、舞楽の制が改変され、朝鮮三国と渤海のそれらは右方(うかた)に、中国、インドのものは左方に分かたれ、その後、11世紀末〜12世紀(平安時代)に及ぶと、前者は高麗楽に、後者は唐楽という風に再編された。

 この高麗楽は、現在の日本の宮内庁楽部楽曲中に残るもののうちの24曲を占め、その中でも、新鳥蘇、古鳥蘇、進走禿(しんそうとく)、退走禿は4大曲と呼ばれて重視された。そして、近年になってもしばしば演じられる高麗楽としては、納蘇利(なそり)、胡蝶、綾切、新靺鞨、敷手(しきて)、王仁庭(おうにんてい)、貴徳(きとく)、狛桙(こまほこ)、埴破(はにわり)、胡徳楽(ことくらく)、八仙、白浜(ほうひん)などがある。

 これらの舞楽は、日本の天皇家が、必要にしたがって宮中で演奏し、舞わせるものの相当部分でもある。

 お知らせ  「海峡を越えてG」(7月4日付)の末尾に次の一文を掲載します。
 大宝元(701)年、「画工司」という絵画や彩色を司った中央官庁が設置されたが、8世紀末までの約百数十年間に文献に名を残す画家152人中、80人は朝鮮からの渡来人だった。してみるとキトラ古墳や高松塚古墳の壁画(7世紀末〜8世紀初)を描いた画家は、朝鮮からの移住者やその子孫である、とそうみて誤りはないだろう。

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