「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―I朴鐘鳴

百済大寺の遺構?−吉備池廃寺跡

百済人工匠のすぐれた技術


飛鳥・天平文化時代

 日本最初の官寺であった奈良県の「百済寺」について、「日本書紀」に次の様にある。

 「舒明11(639)年秋7月、百済川の側(ほとり)に、大宮と大寺を作
らせたのであるが、書直県(ふみのあたいあがた)を大匠(おおたくみ、建築技術者の長)として造立させた。同年12月、百済川の側に九重塔を建てた」

 書直(ふみのあたい)は、5世紀初に百済から渡来したといわれる阿知使主(あちのおみ)の子孫と称する古代日本の雄族で、大和国高市郡檜前(ひのくま、奈良県高市郡明日香村檜前)を本拠とし、6世紀には、書(文)、坂上、民、長など多くの氏に分岐して、大繁栄をみた百済系の渡来人である。

 ところで、奈良県桜井市吉備で巨大な寺院基壇跡が発掘され、吉備池の側にあったことから吉備池廃寺跡と名付けられた。発掘された基壇跡は金堂跡と見られ、また同金堂跡の西50数メートルの所で「塔の基壇跡」も発掘された。基壇跡は金堂跡と同様、版築法で造られ、高さは約2.1メートル、面積は約30メートル四方である。

 基壇の一辺が30メートルというのは、法隆寺の五重塔の基壇の約4倍もの面積で、そこに建つ塔の高さは90メートルに及ぶと推定される。

 7世紀前半で90メートル近い塔といえば、文献的にみると、百済大寺の九重塔以外には存在しない。

 橿原市法花寺(ほっけいじ)町に東百済・西百済の小字名があり、その地を南北に縦貫して百済川が流れる。基壇跡から西に2キロメートル足らずである。つまり「日本書紀」にいう「百済川の側」というのはこの地とも考えられる。基壇跡の南側から川の跡も発見された。

 その後さらに、回廊の遺構も発掘され、この「大寺」を囲む回廊の規模を推定すると、東西約160メートル、南北約110メートルに及ぶという。伽藍配置が同じと考えられる法隆寺の規模の約2.3倍という広さである。

 百済大寺跡、という公算は高い。

 その理由として、@基壇が巨大で豪族の私寺とは考えられないA出土瓦の年代(640年頃)と百済大寺の建立(639年)とが一致するB出土瓦が少ないのは、この寺がすべて移築されたからである――が挙げられる。

 さて、新羅の都であった慶州に皇龍寺跡が残る。569年に完成をみた。寺地は、東西約288メートル、南北約284メートル、約8万平方メートルの広大さである。塔は646(善徳王15)年に完成した木塔で、百済の工匠阿非知(あびじ)の指導のもとに建立された。高さ約80メートルの巨塔で、法隆寺の塔の2倍である。

 596年完成をみた飛鳥寺建立には百済人「寺工」と百済系東漢氏、百済大寺建立(639年)にも百済系の東漢氏がたずさわっている。

 百済の建築技術が、当時、格段に秀でていたことによるものと考えて誤りはなかろう。

 つまり、吉備池廃寺が「百済大寺」である可能性は高いが、そうであったにせよ、そうでなかったにせよ、それは百済と新羅との関係の延長線上で日本が大きく影響を受けて成立した、と言ってよい。

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