ゆがんだ風景−「記憶の戦争」の現場で(5)

新たな戦争への序曲

首相の靖国神社公式参拝/東京裁判否認の動き加速


 小泉首相の靖国神社参拝は、何を意味するのか。日本がアジア再侵略の道を踏み出すものと見るのは、アジア各国、欧米の一致した見方だ。戦争中、日本の兵士たちは「死んだら靖国神社で会おう」と言い残して出征した。靖国神社は「侵略を美化した軍国日本の精神的支柱」そのものだった。そして、ここには日本の戦争責任を裁いた東京裁判でA級戦犯とされ、処刑された東条英機(元首相)ら14人が合祀(ごうし)されている。この場所で「平和を祈る」と強弁したところで、一体誰が信用するだろうか。日本帝国主義の亡霊をよみがえらせるようなものだ。

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 昨年秋に米国で出版された評伝「昭和天皇と日本の近代国家の形成」でピュリツァー賞を受賞したハーバート・ビックス教授は、「日本が東京裁判を受諾した意味は、侵略戦争に対する国際的な責任を負うことだった。しかし、A級戦犯がまつられていたことが発覚し、講和条約で交わされた日本の国際的な責任との矛盾が露呈した。このため、第2次世界大戦を自衛のための戦争と定義し直すわけだが、これは東京裁判の否定になりかねない」(毎日新聞8月7日付)と日本政府の姿勢を厳しく批判する。

 それは16年前にさかのぼる。85年夏、中曽根首相(当時)は、自民党研修会・軽井沢セミナーで講演し、新しい国家主義の確立と国家の復権をめざすことが、「戦後政治の総決算」であるとし、日本にはかつて皇国史観があったが、戦後は太平洋戦争史観や東京裁判史観に毒されているとし、日本人のアイデンティティーの確立の必要を強調した。中曽根氏は日本の首相としては初めて「東京裁判史観」を批判したのだが、ここで「東京裁判史観」という用語は、「日本の政治的、軍事的自立をめざす復古主義的ナショナリズムを志向する上で排除すべき歴史観を十把一からげに示すイデオロギー的標語」(歴史学者荒井信一氏)となったのである。

 中曽根氏は東京裁判否定の心情をたぎらせ、この1ヵ月後、A級戦犯を合祀した靖国神社への公式参拝を強行した。

 当時、レーガン米大統領が「ソ連は悪の帝国」とソ連脅威論で核軍拡競争をあおり、中曽根首相が「日本列島の浮沈空母」化を唱えていた。しかし、米日の軍拡路線は、南北朝鮮、中国などアジア各国の強い反発を招いた。とりわけ首相の靖国神社公式参拝に対する反発と不信は大きく、51年に締結されたサンフランシスコ平和条約の条文を改めて再確認せざるを得ない羽目に陥った。同条約11条は「日本政府が極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決を受諾する」ことを明記している。すなわち、サンフランシスコ平和条約、あるいは同条約第11条の破棄の通告でもしないかぎり、東京裁判の判決を否認することはできない。A級戦犯を合祀した靖国神社への首相らの公式参拝も、当然、同条約第11条に抵触するからである。

 中曽根首相の公式参拝が1回きりになった背景にはこうした事情があった。以降、日本政府は東京裁判否認の姿勢は示せなくなったが、その周辺の自民党タカ派や保守・右翼論壇では、相変わらず「東京裁判史観」批判を唱えて、日本の戦争責任、戦争犯罪を隠ぺいしようとする動きが執ように続けられてきた。

 90年代後半に入って、日本の状況は右に急旋回した。日米新ガイドラインの成立で自衛隊の朝鮮出撃態勢が確立。憲法改悪、有事立法の制定まで日程表に上るようになった。こうした環境の中での小泉首相の靖国公式参拝は、「右翼勢力を喜ばせるものとしか受け取れない」(英紙フィナンシャル・タイムズ紙9日付)ものであり、新たな戦争への序曲として決して看過できないのは当然であろう。

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 東京裁判は、米国の極東戦略の思惑によって、陸海軍を統帥した天皇の戦争責任を免責した。日本の朝鮮、台湾への植民地支配の責任を審判の対象とせず、朝鮮人強制連行や日本軍性奴隷制を裁かなかった。過去と闘い続けるドイツ政府とは異なり、日本政府は自ら戦犯を追及しなかった。このことによって、戦後の日本は、政治的な道義を失い、国際社会における信用を失墜させたのである。

 「国家の最高位にあった人物がつい最近の出来事に責任を負わないで、どうして普通の臣民が自らを省みるか」(ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」)

 日本に注がれる国際社会の厳しい目は、もはや小手先のまやかしを許さないだろう。(朴日粉記者)

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