くらしの周辺
「弱さもつ人間」として
先日、弟夫婦の間に出来た子どもの顔を見に岐阜まで行った。弟の義父によると岐阜県ではブラジル人の方が朝鮮人より多いそうだ。そういえば数年前より朝鮮人はすでに在日する外国人の過半数を割っている。
もうだいぶ前になるが梁石日原作の映画「月はどっちに出ている」でも主人公の母であるスナックの在日朝鮮人雇主とフィリピン人の雇われ人との関係の微妙さがさらっと描かれていた。なかなか考えさせられる場面だった。差別され、抑圧され、搾取され、といった「被」の立場性のみ、シンプルに、ある意味、安穏と主張すればいい時代はこの10数年前から終わっている。 ついこの前には、米軍による老斤里での民衆虐殺が南で問題化される中、南でもベトナム戦争従軍中にベトナムの民衆を虐殺したという告白をする人間が出て来たと言う記事を新聞で読んだ。たしかに南の軍隊は対ゲリラ戦がうまいという評判を得る一方、その凄惨なやり方ゆえ、ベトナム民衆から忌み嫌われたという。 「被」と「加」は隣り合わせ、いや、同居していると言った方が的確か。昨日の被害者が今日の加害者になり、差別されるものが、差別をしている。われわれが「被」からの解放を叫ぶのはいい。しかしわれわれも「加」になりかねない弱さを持つ人間だということを自覚すべきであろう。そしてそれがゆえにこそ「被」も「加」もない社会への解放をめざすべきなのであろう。(金東鶴) |