メディア批評E―長沼石根

「根っこ」突けぬ戦争責任論

首相の寒々しいアジア観


集中した「靖国」問題

 暑い夏だった、とまだ過去形で語るわけにはいかない。季節こそ秋色濃厚だが、この夏を熱くした小泉首相の靖国参拝問題は少しも冷めていない。

 「靖国神社」の何たるかは、7月23日付本紙が丹念に解説している。ここではもう1点、東京空襲の犠牲者など、非戦闘員のほとんどは祀(まつ)られていないことを付け加えておく。

 小泉首相は総裁選出馬以来、「戦没者達に敬意と感謝の誠をささげるのは当然。いかなる批判があろうと、8月15日には必ず参拝する」と繰り返し語り、結局、「熟慮」の末、2日間前倒しして8月13日に参拝した。

 その間、中国、韓国をはじめ、政権党内外、有識者らが、参拝中止を求めてさまざまな働きかけをしてきた。さて、首相の決意を多少ともゆるがせたのは?  メディアはどこもそこを詰めきっていない。首相の歴史認識を知るうえで、ぜひ追及してほしかった。

 翌日の新聞各紙は、一斉に社説でこの問題を取り上げた。

 読売、朝日、毎日、日経、産経五紙の社説の見出しと内容の一部を紹介しておく(カッコ内が見出し)。どれがどの新聞だろう。

 @「これが熟慮の結果か」―首相の靖国参拝は…憲法20条の政教分離原則に照らして疑義。…参拝そのものをやめるべきだった。

 A「大変なのはこれからだ」―内外の批判を納得させる行動ではない。…国益にかなうはずがない。…小泉政権の姿勢に逆行する。

 B「妥協の末の靖国神社『十三日参拝』」―これほど大きな政治問題にしてしまうことは首相として避けるべきだったのではないか。

 C「前倒し参拝は適切な政治判断だ」―首相の言う「幅広い国益」を総合的に考えるならば、賢明な政治判断だったと言える。

 D「苦渋の決断だが信を失う」―15日の首相参拝が実現すれば、ようやく当然の姿に戻るものとして高く評価してきた。

 おおよそ察しがつくだろう。@から順に朝日、毎日、日経、読売、産経である。ついでに13日付の産経が1面コラムで、いま公式参拝をやめるのは「周辺国の 思い上がった卑俗な精神 に、ひれ伏すに等しい」と書いていたことも記録しておく。

 いちいち論評することもあるまい。各社の姿勢・考え方がよく分かる。

 それにしても言論の府にしてこのありさまである。首相が判断に迷うのも当然、というのは冗談だが、ここに表れた各社の歴史認識を思うと、面白がってはいられない。

 同様に、小泉首相がアジアをどうみているかが、大いに気になる。首相は就任早々米国詣でを果たしたが、4ヵ月経った今も、近隣アジアへは足を運んでいない。

 12日付の毎日によれば、小泉首相は周辺の関係者に、「中国や韓国から来てくれといわれるけれど、レッテル張りをされるから、僕は中国にも韓国にも台湾にも行ったことがない」と語っていたとか。

 率直といえば率直だが、一国の首相のアジア観の表現だと思うと寒々しい感じがする。

 少し前の話になるが、TBSの記者が出しているメールマガジンで興味深いレポートを目にした。6月に小泉首相が沖縄を訪れたときのことだが、「RBCのデスクの話では、平和の礎を小泉首相が見て回った際、韓国の犠牲者の碑文の前を素通りしたとかで、韓国の関係者の人達が式典参加をボイコットしたという」(6月23日)のである。メルマガの発信人・金平記者は翌日付でさらに、地元の新聞を買ってみたが、「韓国遺族の抗議の不参加の件など1行も出ていない。そんなもんか」とメディアの対応にも疑問を呈していた。

「夏のジャーナリズム」か

 そのメディアはといえば、首相の一連の、私に言わせればアジアを見くびった姿勢にどこも言及していない。第一、「参拝します。その後、中国や韓国の理解を得られるよう努めたい」とは、問答無用でなぐった相手に、後で弁解する手口と変わらない。この人には、足を踏まれた人の痛みなど理解できそうにない。

 実は、近隣アジアから問われているのは、メディアとて例外ではない。メディアはそのことをどれほど自覚しているだろうか。そんなことを言うと、日々の報道を見てくれ、と反論されそうだが、要はどこまで歴史を踏まえた報道をしているかということ。

 首相の靖国参拝に対する海外の反応を報ずる紙面をみれば、そのことははっきりする。

 読売が米紙、英紙の報道を紹介し、朝日が中国、韓国を中心に近隣アジアに目を配り、毎日は中・韓・台のほか、インドネシア、タイ、ミャンマー、フィリピンの反応を追い、一見幅広くフォローしているように見えるが、ほとんどパターン化した報道の範囲を出ていない。例によって例のごとしで、肉声はまるで伝わってこない。

 14日付朝日は、在日歴の長いクアラルンプール在住のジャーナリスト陸培春の「東南アジアでは批判が強くないように見えるが、友好関係に遠慮して発言しないだけ。私達の感情を正確に知ってほしい」、という発言を伝えている。きっとその通りなのだろう。前記の報道では、その辺が見えてこない。

 「夏のジャーナリズム」という言葉がある。8月になると定番のように、取り上げられる話題で、例えば戦争報道のように、いつも未消化のまま秋風が立つ頃には消えていくのを揶揄(やゆ)した言い方らしい。靖国参拝をめぐる報道も、そのひとつだろう。

 これにケジメをつけるには、メディアも共に、小手先の対応でなく、日本の戦争責任を明確にし、戦後補償も含めて、過去をきちんと清算するしかない。

 8月15日、新聞各紙は13日に続き、「終戦の日」を受けた社説を載せた。注目すべきは「歴史に対する責任とは」とする朝日の見解。「戦後の原点に立ち返るとき、どうしても避けて通れないのは、昭和天皇の戦争責任をめぐる問題」だとして「やはり天皇の戦争責任は免れない、というほかあるまい」と言い切っている。

 何を今さら、と鼻白む人もいるだろうが、ここを突けないために、議論はいつも空転してきた。在韓被爆者問題も、花岡事件、朝鮮人BC級戦犯の問題も、すべて根っこは同じである。8月23日に京都地裁で判決の出た「浮島丸事件」にしても、同じ構造の中にある。

 敗戦(ほとんどのメディアが「終戦」といい変えているのは不快だが)から56年。夏のジャーナリズムなどと呼ばせないためにも、一過性でなく、不断の掘り下げを期待したい。

 詳しくふれる紙数はないが、ほかに、高知県檮原(ゆずはら)町を舞台にした韓国の大学生と町民の交流を報じた毎日の「記者の目」(8月21日付)、靖国神社の特別展を検証しながら、首相の参拝に「ノー」を突きつけた朝日のコラム「ポリティカにっぽん」(28日付)が印象に残った。

 首相の靖国参拝以来、国会裏で座り込む「韓国」全羅北道の道会議員・李京海さんの「断食」は、月末で18日目。疲れの色が濃い。振り返る人は少ない。(ジャーナリスト)

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