ウリ民族の姓氏−その由来と現在(4)

「中国式の姓使用」は誤り

起源と変遷(2)

朴春日


 わが国の最近の史料研究によると、古朝鮮には「王受兢(ワンスク)」という人物がいたこと、また「(ペ)・裴氏の一族は、檀君時代に朝鮮南部へ移住して広まったことなどが確認されている。

 ここに登場する王氏と「氏は、漢字で表記されてはいるものの、明らかに古朝鮮の姓氏のひとつであって、むろん中国のそれではない。

 こうした視点で見て行くと、「三国史記」や「三国遺事」にも、興味深い事例がいくつか浮かび上がってくる。

 たとえば「三国遺事」紀異第一の北扶餘の項には、天帝と称する解慕漱(ヘモス)が王となり、「子をもうけて扶婁(プル)と名づけ、解(ヘ)氏をもって姓とした」とある。

 「ヘ」はむろん「」で太陽を意味するが、たとえ説話であっても、紀元前7世紀以前に成立したと見られる扶餘の時代、国王が姓氏を持ったという内容は無視できない。

 これは何よりも、わが国における姓氏の成り立ちを反映した説話の一例と考えられるが、明確な史実として注目に値するのは、古朝鮮末期に登場する次のような人物たちの姓氏である。

 わが国の史書によれば、紀元前194年、古朝鮮の諸侯であった満(マン)が新王朝を建て、一時繁栄を誇っていたが、紀元前109年、漢の武帝がこれを征服すべく大々的な侵略を開始した。

 そのとき、満朝鮮の大臣であった韓陶、路人と尼谿大臣の参、将軍の王侠らが卑劣にも祖国を裏切り、右渠(ウゴ)王を殺害して逃亡した。

 しかし、大臣の成己(ソンギ)は王倹城を死守し、漢の大軍に徹底抗戦して壮烈な最期を遂げている。

 ちなみに、この忠臣には成長(ソンジャン)と名乗る息子があり、彼ら古朝鮮の遺民集団は紀元前28年頃、崔理(チェリ)を押し立て、平壌を中心に楽浪国を建てている。

 すでに明らかなように、この史話には古朝鮮時代に使用された姓氏が頻出しており、その頃、姓氏の使用が王族から貴族、そして士族階層へと普遍化していく社会相が顕著に認められる。一般民衆の場合は、まだ名前だけであったろう。

 歴史に名を残した忠臣・成己の場合は、いうまでもなく「成」が姓であり、「己」が名である。そして、この姓氏が現代朝鮮まで連綿と引き継がれている事実は、周知のとおりである。

 こうした史実をふり返ってみても、「朝鮮には従来男系の血統を表示する姓はなかった」とか、「三国時代に中国式の姓を使用したのが(姓氏の)起こり」だなどと強弁することが、いかに大きな誤りであり、いかに偏見にみちたわい曲であったか、すでに明白であろう。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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