ウリ民族の姓氏−その由来と現在(5)

三国時代の始祖王、漢字姓用いる

起源と変遷(3)

朴春日


 古朝鮮時代をへて三国時代に入ると、わが国の支配階級は漢字による姓氏への表記をしだいに通例化し、それを社会的風潮として定着させていった。

 まず高句麗(コグリョ)の例を見よう。紀元前227年頃、自ら檀君の後裔(えい)であると称した朱蒙(チュモン)は、朝鮮古代国家の1つ句麗(クリョ)の卒本(チョルボン、注・高句麗の始祖東明聖王が都邑を定めた所)扶餘(プヨ、中国東北部の渾江付近)でわが国最初の封建国家を創建し、新国名を高句麗と号した。

 つまり朱蒙(東明王)は句麗という旧国名に「高」の字を冠したわけだが、それについて「三国史記」高句麗本紀は、「始祖の東明聖王は、姓を高氏、諱(いみな)を朱蒙といった」と記述している。

 この記事から、東明王は「高」という姓を用いたことがわかるが、そのいわれは「高」という漢字が天と太陽を表す吉祥の文字であるからだという。

 では、高句麗にやや遅れて封建小国をつくり、紀元前1世紀末に漢江南方の慰礼(イレ)城を都とした百済の場合はどうか。

 「三国史記」百済本紀によると、始祖・温祚(オンジョ)王は前述の朱蒙の次男で、兄・沸流(プルリュ)との対立を恐れて臣下とともに南へ逃れ、慰礼城(現・ソウル北漢江付近)に都を定めて百済を建国したという。

 そして、その「系譜は高句麗と同じく扶餘から出ているので、扶餘をその氏の名とした」とある。

 これは当時の王族や貴族たちが、自己の出身地名を姓氏にすることにより、その血筋と地域的所属を表した実例だといえよう。

 つぎに新羅の場合は、辰韓(チンハン)12小国の1つ斯盧(サロ)国をもとにして、紀元1世紀初・中期に成立した封建国家である。

 「三国史記」新羅本紀によると、「始祖の姓は朴氏で諱は赫居世(ヒョクコセ)である。……辰韓では瓢(ひさご)のことを朴(パク)という」とある。

 伝説によると、始祖王の朴赫居世は天が授けた瓢のように大きな卵から生まれた人物で、古朝鮮の遺民たちが住んでいた六ヵ村の長から推されて王になったという。

 さらに、紀元1世紀中頃、洛東江下流地域を中心に成立した伽耶(カヤ、駕洛)の場合を見よう。

 「三国遺事」ほかの史料によると、亀旨(クジ)峰で不思議な声がし、天から金色の箱が下りてきたので、開けてみると6つの童子が現れた。そこで、初めの童子を「首露(スロ)」と名づけ、金の卵から生まれたので「金」姓とし、王に推たいしたと伝えられる。

 このように、三国時代の各始祖王は、吉祥祈念や出身地名、または出生伝説などから漢字による姓氏を用いたが、では、わが国固有の神誌(シンジ)文字はなぜ使わなくなったのだろうか。つぎに見ることにする。(パク・チュンイル、歴史評論家)

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事