ウリ民族の姓氏−その由来と現在(6)

当初は神誌文字で表記

起源と変遷(4)

朴春日


 周知のように、わが国では檀君の古朝鮮時代、すでに民族固有の文字―神誌(シンジ)文字が創製され、人びとの間で広く使用されていた。

 神誌(神市とも表記)文字とは、もともと「王や支配者の文字」という意味であるから、創製当初は支配階級専用の文字として使用されたが、やがてそれが一般民衆にも広まったと考えられる。

 そうした事実は、古朝鮮時代の遺跡から出土した土器や楽浪(ラクラン)古墳の磚(瓦)、碑石、そして古文献などによって確かめられている。

 たとえば、16世紀初の学者・李陌(リベク)の「太白逸史」は、「檀君時代に神市篆書(神誌文字)があり、太白山、黒竜江、青丘(朝鮮)、九黎(九麗)などの地域で広く使用された」と述べている。

 また朴趾源(パク・チウォン、注・李朝時代の文学者、実学者)の「燕巌集」や中国・沈括の「夢渓筆談」には、済州島でも漢字ではない固有の民族文字が使われていたという記録がある。したがって、わが国の姓氏も当初は神誌文字によって表記されていたであろう。

 最近の研究では、神誌文字が表意文字ではなく、音節文字であったことが明らかになり、この神誌文字が李朝の世宗(セジョン)王時代に創製された「訓民正音(フンミンジョンウム)」の淵源になったと考えられている。

 その意味で注目されるのは、「世宗実録」25年12月条に、「この月、王が諺文(オンモン)28字を創製した。この文字は古い篆字(チョンチャ)を利用した」という記事である。

 この「古い篆字(てんじ)」とは、神誌文字が古文書類に「神誌篆」「神誌篆字」と記されていることから、それを指すことはまず間違いない。

 このように、神誌文字は古朝鮮時代からわが国の表記手段として、姓氏をはじめ公文書類に使用されてきたが、そうした文字生活がいつ頃、どのような要因によって漢字利用へと変移したのか、見てみる必要がある。

 そこで問題となるのは、わが国への漢字文化の伝播であるが、仏教の公伝を見ると、高句麗は小獣林王2(372)年、百済は枕流王元(384)年に伝わり、新羅には高句麗から訥祇王34(450)年に伝えられた。

 また高句麗は、仏教公伝と同じ年に儒学教育の大学を設け、624年には道教を受け入れているが、これらの経典や古典類はすべて漢文であるから、それに対する基礎知識と解釈力は十分整っていたと考えられる。

 実際、1世紀末の後漢・王充の「論衛」には、朝鮮ではすでに漢文の主要古典が広く知られていたという。とすれば、漢字の流入は古朝鮮時代にさかのぼるであろう。

 こうした背景のもとで、わが国の神誌文字は支配層の中でしだいに疎外されていったが、その底流には、彼らの古代中国に対する事大思想と漢文化崇拝の風潮があったのである。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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