ウリ民族の姓氏−その由来と現在(8)

吏読文字が与えた影響

起源と変遷(6)

朴春日


 漢字の音訓を利用して朝鮮語を表記する吏読(リドゥ)文字は、わが国の姓名表記にどのような影響を与えたであろうか。

 まず高句麗の場合を見ると、始祖王・朱蒙(チュモン)の建国説話の中に、彼が新しい土地を求めていく途中、3人の賢者に出会う場面がある。

 そのとき朱蒙は「貴公らはどこの者で、姓は何といい、名は何というのか」と問うた。すると麻衣を着た男は「再思といいます」、僧衣の男は「武骨です」、水藻の衣の男は「黙居です」と答えたが、姓をいわなかった。そこで朱蒙は再思に「克(クッ)氏」という姓を与え、武骨に「仲室(チュンシル)氏」、黙居に「少室(ソシル)氏」の姓を与えた。(「三国史記」)

 このくだりは、当時、王君が臣下に姓氏を下賜する慣例があったことを物語るが、これらの姓氏はむろん吏読式表記である。つぎの例も興味深い。

 その1は、故国川王の「王后は掾那部(ヨンナブ)于素(ウソ)の娘であった」(前掲書)というくだりで、「掾那部」は高句麗五族の1つであるから、その出身地名を姓氏とし、名を「于素」としたわけである。

 ちなみに、対唐戦争で勝利した高句麗の名将・淵(泉)蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)の「ヨン」は、同じく掾那部を意味するから、彼も出身地名を姓氏にしたのである。

 その2は、「貫那(クワンナ)沛者(ペジャ)弥儒(ミユ)」という人物の姓氏。これは出身地名・官位名・名前の順で、少々欲張ったのかも知れない。

 わが国の史書に見える高句麗の主な姓氏は、王室の高氏をはじめ、張・楊・王・杜(ト)・呉・李とつづく。

 つぎに百済の場合は、そのまま「真忠(チンチュン)」や「解仇(ヘグ)」と名乗る官吏の例が多い。むろん「真」と「解」が姓である。

 一方、日本の歴史学界で飛鳥時代の蘇我満智(そがのまち)と同一人物ではないかとされた百済の官人「木★(力が3つ、『品』のような配列)満致(もっきょうまち)」は、「木★(力が3つ、『品』のような配列)」という復姓ではなく、「木(モク)」姓の方が正しい。

 百済の主な姓氏は、王室の扶餘氏をはじめ、沙・燕(ヨン)・★(力が3つ、『品』のような配列)(ヒョプ)・解(ヘ)・真・国・木・白(栢)とつづく。

 新羅は高句麗とほぼ同様であるが、特徴的なのは「匠人(チャンイン)本彼部(ポンピブ)強固乃末(カンゴネミ)」という姓名のように、官位が先にきてから出身地名・名前とつづくことだ。しかし、これは公式的な場合に限られていて、一般的には名前だけを使っていたようである。

 新羅の主な姓氏は、王室の朴・昔(ソク)・金氏をはじめ、餘・李・孫・鄭・「・薛(ソル)・南・安・崔とつづく。三国と伽耶の民衆はむろん、まだ名前だけである。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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