それぞれの四季

震災から7年

ウォン・ヂョンヒ


 日頃東京で暮す私は、年末年始を両親のいる神戸で過ごした。街には中高層マンションや団地、プレハブ住宅がまた増えていた。幼い頃、通学路としていたJR新長田駅周辺には当時、ケミカルシューズの工場がひしめき合っていた。下校時には、ゴムのにおいや裁断の音に包まれた街を探検しながら、いくつもの寄り道ルートを作ったものだ。震災により、それらはほとんど残っていない。しかし数々の思い出は、今でも鮮明によみがえってくる。

 7年前の震災の時、朝鮮大学校に在学していた私は、直ぐに神戸に向かおうとしたが、父に止められた。「お前が帰ってきても何の役にも立たへん。大丈夫や」。それでも帰ろうとした私を留まらせたのは、母校に避難していた友人であった。「心配するな。こっちでは焼肉食べて、あったかい毛布にくるまっとる」。

 結局、私が帰ったのは春休みになってからだった。目の前の崩れた建物よりも、喫茶店に飾ってある絵画が傾いているのを誰も気に止めていないことにショックを受けた。私の中で大震災が現実であり真実となった。そのことを話すと母が大きめのきれいなハンカチを取り出してきた。震災当日の夜、大阪の同胞青年が、バイクで10数時間かけて届けてくれたおにぎりを包んでいたハンカチだという。

 大晦日、長田の市場で会った顔なじみのおばさんは震災の年に生まれた孫娘を連れていた。今年度、私の母校の後輩となったのだという。

 多くの同胞たちが助け合い築いてきたそのまちで、彼女も珠玉のような思い出をつくっていくことを強く願った。(医療生活協同組合職員)

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