ウリ民族の姓氏−その由来と現在(37)

明太は明川太氏が捕った魚

種類と由来(24)

朴春日


 わが国の歴史をたどると、大(デ)氏は三国時代に登場し、高麗時代には、その氏族の中から太(テ)氏が生まれたことがわかる。

 大氏といえば、まず渤海(パルヘ)国の創建者・大祚栄(テ・ジョヨン)が思い浮かぶだろう。

 周知のように、高句麗は668年、唐の侵略勢力と野合した新羅の背信によって、悠久な歴史の幕を閉じた。

 しかし旧高句麗の将軍・大祚栄は遺民集団を率い、熾(し)烈な反唐戦争を展開して、698年、高句麗を継承する震国(チングク)を樹立した。そして旧高句麗領土の大部分を回復すると、国名を渤海と改め、その始祖王―高王となったのである。

 こうして大氏の歴史が始まり、とくに第2代・大武芸―武王、第3代・大欽茂―文王、そして第10代・大仁秀―宣王の時代、渤海の国威は大きくとどろいた。

 わけても武王は、唐の露骨な侵略企図を打ち砕き、領土を拡大したばかりか、日本との修好関係を成立させ、200余年にわたる善隣友好と交易の道を切り開いた。727年のことである。

 また文王は、国力をいっそう充実させ、宣王はそれをさらに発展させて、周辺諸国から「海東の盛国」と讃えられる強大国を築き上げた。

 しかし、その渤海も926年、凶悪な契丹侵略者によって滅ぼされてしまった。そのため哀王の太子・大光顕は数10万の民衆を引き連れ、同族国家の高麗へと移住した。

 高麗の太祖・王建が彼らを厚遇したのはいうまでもない。王建は大光顕に王継という氏名を授け、王族として白州(黄海南道)の地を与え、長子・大道秀にも将軍職を授けている。

 その後、外敵撃滅で勇名をはせたのは、彼の子孫・大金就であった。高麗政府は彼を永順君に封じたが、この頃、永順太氏が生まれたと伝えられる。

 かつて大光顕は王姓を賜ったものの、大道秀のごとく大姓を保持した一族もいて、彼らは高麗23代の高宗の時期(1214〜1259)、正式に大姓を太姓に改め、今日に至っている。

 太氏の本貫は20。代表的な本貫は、永順(慶北・尚州)、坡平(京畿・坡州)、龍仁(京畿道)、陽川、羅州、南原、珍山である。最後に、楽しい伝説を1つ。

 その昔、咸鏡道の明川に太氏を名乗る漁夫がいた。ある日、これまで見たこともない魚が捕れたので、さっそく王様に献上した。

 すると、その魚を食べた王様は、「珍味であった。明川の太氏が捕った魚だから、以後、明太(ミョンテ)と呼ぶことにしよう」といって褒美を与えたそうである。

 凍った明太は凍太(トンテ)、乾した明太は乾太(コンテ)という。日本でいう「メンタイ」も、むろん朝鮮語からきている。次回は張氏の予定。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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