朝鮮民族の受難の証「耳塚」築造405年で「供養の集い」

「非道直視して平和を」


 豊臣秀吉の妄想と飽くなき権勢欲の暴走の末に、引き起こされたのが、410年前の朝鮮侵略戦争(壬辰戦争)であった。朝鮮全土で行った乱暴狼藉の極みと暴挙の証が、京都市東山区にある「耳塚(鼻塚)」に残されている。9月28日、築造405年を迎え、組織の壁を越え、大勢の同胞らが参加して「供養の集い」が行われた。

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 1597年、秀吉は、兵士に軍功の証として、(10余万人とも言われている)朝鮮人の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本に持ち帰るよう命令した。「鍋島家文書」などによると、その残虐な殺戮がこう記録されている―。「昨今の首に代る鼻九十、確かに受け取りました」「鼻三百六十五これを受け取り、御奉行衆へ渡しました」―。「耳塚」は朝鮮から送られた大虐殺の「証」を集め、僧侶400人を動員して供養という名を冠した戦勝イベントを行った場所である。

 今年、「耳塚」の境内で行われた「慰霊、供養・追悼の集い」は95年から開かれているもの。この日の集いでは壬辰戦争と「京都耳塚」を考える会の朴容徹代表があいさつに立ち、「『耳塚』は日本では戦前の間違った歴史教育の中で、秀吉の慈悲の表われと歪曲され、戦後も誤った史実がまかり通ってきた現実がある。私たちはこうした過ちを正し、隣国同士、前向きに東アジアの一員として生きて行く正しい歴史観を身につけるべきである」と訴えた。続いて、海東仏教会に所属する両組織の同胞住職たちと日本の岸俊道住職らが共に読経。続いて来場した200人以上の人たちが静かに焼香の列に加わったが、高校生らの姿も散見され、歴史を語り継ごうとする意志を、全身にうかがわせていた。

 その中の1人、文尚哲君(16)は大阪の日本の高校に通う3世。「耳塚」には初めてきた。「歴史の授業で習っていたが、なんといっても打ち首の数をきそわせる鼻(耳)切りや、朝鮮の無数の老若男女を日本に連行し、奴隷として売買した破廉恥な蛮行には、怒りを鎮めることができない」と語った。

 友人の申春樹君(16)は4世。「耳塚」に来て、「歴史に対して無知な自分」を知って愕然としたと話す。「400余年前に無残に犠牲になった人々、1世紀前の日本による朝鮮侵略で強制連行された同胞たちの無念さ。民族が味わった受難を直視せずして何の明日があるだろうか。今を生きる者として彼らの生と死をどう解明し、後世に生かしていくのか、今日をきっかけに考えていきたい」と力強く語ってくれた。

 「歴史に対する的確な知識と認識なしには、現在、未来を自覚的に生きることはできない」と言うのは高3の全小百合さん(17)。「歴史の事実を知ってこそ、現在の問題とも深いところで向き合える」と語った。

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 普段は静謐な「耳塚」の境内。正面の右側には樹齢80年ほどの姿のいい松が豊かな枝を実らせている。すでに80年近く塚守をしている清水四郎さん(88)の亡父が植えた松だ。親子2代に渡る長い歳月を塚と共に過ごしてきた。

 「物心がついた時は、すでに日本が朝鮮を植民地にしていた。日本人が朝鮮人を見下していた時代だった。こんなことが再び繰り返されてはいけない。この塚は日本人にとっては自慢できない、恥ずかしい場所。でもそこから目を背けず、日本の非道を直視してこそ、平和が生まれる」ときっぱり。近所の人たちと長年黙々と塚を守ってきた清水さんたちは一銭の報酬も受けていない。「そんなのが出たら、私はすぐ辞めますよ」と笑い飛ばす。

 清水さんを近年、ますます元気にさせているのは、日本各地の小学生が、平和教育の一環として、「耳塚」を大勢訪れるようになったこと。つい2日前にも福島の200人の小学生がここを訪れ、千羽鶴を捧げ、塚の由来を説く先生の話に聞き入っていた。

 「まずは関心を持ち、一緒に考え、平和への小さな一歩を共に歩み続けようと訴える先生の話には思いっきり拍手を送っています」

 清水さんは今では近所の人たちから「あんたはええ行いをしなさっているから、長生きしますのや」と声をかけられることが多く、その都度「ソウヤ、ソウヤ」と答えていると破顔一笑した。(朴日粉記者)

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