手記-岡山のハンセン病療養所を訪ねて
今こそトンポを歌いたい
朴貞任
それは、歴史的な朝・日平壌宣言が発表された翌日。京都・兵庫朝鮮歌舞団と関西地方の朝青、文芸同の有志ら15人は、岡山県にある国立ハンセン病療養所、邑久光明園に向かっていた。そこにはハンセン病に対する社会的偏見に加え、在日朝鮮人ゆえの苦しみを負わされてきた1世の元患者の方々がいる。
本州から、長島大橋を渡ると園に着いた。澄み渡る青空に団員の1人が「素晴らしい景色ですね」。すると、職員の方が、「ここにいる方々はそういう風には思わないんですよ」と言われた。幼少の頃、療養所に強制的に収容された人たちは、故郷に帰りたい一心で、当時橋がなかったこの海を泳いで渡ろうとした。多くの子どもが命を落としたという。 ◇ ◇ 150人のハンセン病元患者が生活する邑久光明園。うち、同胞は約40人だ。 私たちは、朝鮮舞踊、独唱「アリラン」、カヤグムやピアノの独奏を披露した。 最後は出演者全員で日本の歌「故郷」の合唱だ。 公演を終えた私たちは、花道を作って観客を見送った。私は思わず手を差し伸べ、「お会いできて嬉しいです。どうかお元気で」とお礼した。すると、「ウリマル ウリノレルル オレンマネ トゥルニ チャム キプダ(朝鮮の言葉と歌を久しぶりに聞いて本当に嬉しい)」と震える声で、ほとんど形を留めていない両手で私の手を握り返してくれるのだった。 「オモニ! 会えて本当に嬉しいです。コマプスムニダ」。熱いものが込み上げ、あふれ出る涙をどうにもできなくなった。 ほかの団員も歌はそっちのけで、同胞元患者との出会いに感極まり、涙していた。 ◇ ◇ その光景を見守っていた館長さんから、「ここに来られない重度の方の病棟にも足を運んでください」との要望があり、私たちは、持ち前の機動性で病棟に向かい、歌や踊りを披露した。 客席を見ると、車椅子に座ったハルモニが、ほろほろと涙を流され、「アリラン」を口ずさんでおられる。われを忘れた涙の合唱は、公演を観ていた職員の方々をも巻き込み、感動的な空間を作っていた。 私たちは、観客全員の手を握り、話をした。「私の故郷は全州。アボジ、オモニに会いたいけれど、もう帰れない。でも畑は耕せるよ」と車椅子のハルモニは目をキラキラさせながら、サトゥリ(方言)の混じったウリマルで応えてくれた。10代で入所し、今年94歳を迎えたと話され、「また来てね。美味しいもの作って待っているから」と手を何度も握り返してくれた。「おばあちゃん、言葉が戻ったね」という看護師さんの言葉を聞くと、もっと泣けてきた。 「今日、園内の人たちは、とけて、ただれた手を隠すことなく、あなたたちのチョゴリを触っていましたね。今までどんな有名な歌手が来ても、帰る時は顔も上げなかった人たちですよ。あなたたちの心が伝わったのです」 帰路につく私たちに館長さんは、こう話してくれた。 ◇ ◇ 歌や踊りは、私たちが思う以上にその人をうつし出すものなのだろうか。本心で、真実の心で歌わなければ、という自責の念が込み上げてきた。おごることなく、過信することなく、歌舞団員としての本分を果たしていかねばと思った。 歴史的な出来事は、私たち在日同胞は「どう歩んで行くべきか」を問うている。 私は思う。こういう時こそ、声をあげて祖国を、在日同胞を歌いたい。歴史を舞い、未来を歌いたい。(京都朝鮮歌舞団副団長、35歳) |